《桜の擬人化》

桜の花のちるをよめる  きのとものり

ひさかたのひかりのとけきはるのひにしつこころなくはなのちるらむ  (84)

久方の光長閑けき春の日に静心無く花の散るらむ

ひさかたのひかり:日の光。「ひさかた」は、日。
らむ:眼前の事実の原因理由を推量する。「どうして・・・いるのだろう。」

「うららかに日の光がふりそそぐのどかな春の日に、どうしてこのように落ち着いた心もなく桜の花は散っているのだろう。」

風の無くうららかな春の日である。明るい陽光がすべてのものにふりそそいでいる。人も物も、万物が落ち着いた穏やかな気持ちになれるはずだ。それなのに、桜だけは落ち着いた心が無いらしい。桜を散らす風も吹かないのに、次から次へと散っている。
桜を擬人化して、心あるものと見ている。擬人化したのは桜への思い入れの強さからだ。その上で、散るのは桜に落ち着いた心が無いからだ、どうして、無いのだろうと推量する。さらに、落ち着いた心があってもいいのではないか、お前だけがこののどかな世界を壊そうとしているぞ、万物と心を一つにして散り急がなくてもいいのではないか、と言いたいのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    好きな歌を選んで現代の言葉に直せと課題に出されて
    「こんなに穏やかで春の暖かな光が満ち満ちているというのに、あなたは何故そんな風に涙を流しているの?気になって仕方がない」春と共に去らねばならない桜の花が泣いている、と中学生の私はとらえてました。何故、涙を流すなんて一言も入っていないのに、素直に訳せないの?と叱られたこと思い出しました。
    百人一首、嫌いでした。

    「散るのは桜に落ち着いた心が無いからだ、どうして、無いのだろう」、落ち着きは無くても、桜にも心がある、と見立てる事で「万物と心を一つにして散り急がなくてもいいのではないか」と気持ちを通わせ春をまだ留めておきたい意思を桜に伝えんとしている。なるほど、今一歩、足りなかったのですね。
    そのあと、この歌をその先生がどう訳したのかさっぱり覚えていない辺り、私も真面目に授業受けていなかったのでしょう。反省。

    • 山川 信一 より:

      そう言われてみれば、そんな雰囲気も伝わって来ます。歌の根底にそういった思いが流れている気もします。「しづごころなく」の「なく」を「泣く」と解し、全体を「春と共に去る悲しみの心で泣く」と解したのでしょう。感性の鋭い中学生でしたね。頭ごなしに叱る先生はいけませんね。勉強を嫌いにすることは、教師が一番してはならないことです。
      「しづごころ」は、82番の歌にも出て来ました。「ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへに静心無し」「我さへに」(私までも)の前提にあるのが桜の静心です。二つの歌は通い合っています。

  2. すいわ より:

    「二つの歌は通い合って」いる、他の歌にもこうした相関関係、ありますね。貫之、この歌集でとても実験的というか、挑戦を試みているのですね。ジグソーパズルのようにそれぞれの歌がピースとなって全てを並べると一つの大きな絵が浮かび上がるような。広間に歌を並べて眺めている貫之を思い浮かべてワクワクしてしまいました。あんなに古典の時間が嫌で頭の上におもりを載せられているようだったのに、今は毎日が楽しみです。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』の編集にも注目したいですね。前後の歌と、あるいはどこかの歌とどう関係しているのか、詞書きはどう働いているのか、それが歌の解釈にも関わる。多角的に楽しめる歌集です。
      それがわかった時、貫之の心に触れることができます。その喜びに浸りたいですね。

      • らん より:

        この歌、学生の頃に習ったから暗唱できました。でもその頃はよくわからなかったけど。
        今は春の麗かな日差しの中に桜の姿が見えます。
        落ち着きのない人。それか、
        妖艶な美女が踊りを踊っている感じ。
        どっちかなあと想いました。

        • 山川 信一 より:

          「妖艶な美女が踊りを踊っている感じ」、なるほど落ち着き泣く散る姿はそんな感じですね。
          この歌は、桜を擬人化したところに特徴があります。それがこの鑑賞になったのでしょう。

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