《桜が散ることへの寂しさと帰ってしまった友への寂しさ》

あひしれりける人のまうてきてかへりにけるのちによみて花にさしてつかはしける 貫之

ひとめみしきみもやくるとさくらはなけふはまちみてちらはちらなむ (78)

一目見し君もや来ると桜花今日は待ち見て散らば散らなむ

ちらなむ:「なむ」は願望の終助詞。未然形接続。「・・・てほしい」

「親しく交際している人が来てくれて帰ってしまった後に詠んで花に挿して遣った 貫之
ちょっと見て帰ってしまったお方がひょっとして帰って来るかなと、桜花よ、今日は試しに待ってみて、その上で散るならば散って欲しい。」

桜が散らないで欲しいという思いを、友が帰ってしまった寂しさにこと寄せて詠んだ。桜よ、お前にも友が帰ってしまった私の寂しさがわかるだろう。それなら、せめて一日散るのを待ってくれないか。散るにしても、もう一度友が見に来てくれるかどうかを確かめてからにしてほしい。こう桜を擬人化して、その情に訴えたのである。同時に、友に対しては、桜はきっと私の思いに応えて散らないでくれるだろうから、見に来て欲しいと願っている。その意味からすれば、友が帰ってしまった寂しさを桜の落花にこと寄せて詠んだことになる。桜と友への思いが「ルビンの壺」のように表現された歌である。

コメント

  1. すいわ より:

    「まだ花の盛りには早かったな、暇するとするか」「なんだ、久しぶりに会ったというのに愛想のない。」、、そんなやり取りをして見送った友。そろそろ満開を迎える、桜のひと枝に歌を添えて「あいつが来るかもしれない、散るのを待ってやってくれ(さぁ、見に来るなら今だ、散ってしまわぬま前に来い)」
    満開を過ぎた枝だと歌を添えて届けられない、と思ってしまいました。もう一度、友と共に桜を愛でたくて花時を知らせてやる。直接、友に向かってその事を言うのでなく、桜に語りかける体で友を呼び寄せる。同じ「ちらはちらなむ」でも惟喬親王の歌のような寂寥感は感じませんでした。

    • 山川 信一 より:

      友は満開の桜を見に来たのでしょう。届けた桜も満開の枝のはず。桜が散るのも惜しむ姿を歌にすることで、友がもう一度来てほしい気持ちを伝えています。
      一方それは、そんな理由を付けて桜に散るのを思い留まらせようという気持ちも表しています。落花への寂しさと友が帰ってしまった寂しさが二重写しになっています。
      どちらが本体とは言えない構成になっています。もちろん、この寂しさは寂寥感と言うほど深刻なものではありません。寂しさは知的ユーモアの題材になっています。

      • すいわ より:

        貫之が編集していて、ここに満開の桜の散り始めを持って来ないわけがありませんでしたね。貫之のいる都と惟喬親王のいる山奥との距離感の違いも失念していました。貫之の友宅は満開の桜を届けられる距離、せいぜい碁盤の目の中。
        編集の緻密さ、恐れ入りました。
        それにしても、たった三十一文字の中に二つの心象を描き切るとは。技巧を見せつけると言うより、そこに遊び心さえ感じるのだから凄いです。

        • 山川 信一 より:

          貫之の歌には油断がなりません。何らかの仕掛がこらされていると思っていいでしょう。
          今回は私の解説のタイトルも誤解を与えました。訂正します。

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