《惟喬親王を慰める》

なきさの院にてさくらを見てよめる  在原業平朝臣

よのなかにたえてさくらのなかりせははるのこころはのとけからまし (53)

世中に絶えて桜の無かりせば春の心はのどけからまし

「渚の院で桜を見て詠んだ  在原業平朝臣
世の中に全く桜がなかったならば、春を過ごす人の心はゆったりしていることだろう。」

春は、桜があることでなんとも落ち着かない季節である。咲く前は、いつ咲くかいつ咲くかと気がかりで堪らない。咲けば咲いたで、いつ散ってしまうかと気を揉まずにはいれれない。桜のお陰で、人は春をゆったりした気分で過ごせない。桜は何とも罪な花である。しかし、そう言いながら、桜が無くなってほしいとは少しも思わない。桜には、これほど人の心を捉える魅力があるのだ。恋がそうであるように。一応はこう解される。
渚の院は、惟喬親王の御領である。惟喬親王の父、文徳天皇は、第一皇子の惟喬親王に皇位を継承させようとしたが、藤原良房の反対で実現できなかったと言われている。この歌をこの位置に置くのは、意味深長である。前の歌とは対照的な失意の人物が浮かび上がる。
そう考えると、この歌は、業平が物事は考えようですよと言って、惟喬親王を慰めているようにも取れる。ならば、歌の主旨も違ってくる。
「あの誰もが愛でる桜だって、人の心を落ち着かせなくさせるという欠点を持っています。いい面ばかりではありません。天皇の地位もそれと同じことです。就く前も就いてからも絶えず心を悩ませます。むしろ、その地位に就かないことで、こうしてのどやかに過ごせるではありませんか。」

コメント

  1. すいわ より:

    伊勢物語にこの歌、出て来たなぁと思い戻って見てみましたら、ちょうど2年前のまさに今日、第八十二段にこの歌が登場しておりました。
    良くも悪くも人の心を騒つかせる桜。何を不遇と思うかはその人次第。心に寄り添ってくれて思う事をさりげなく代弁してくれる人がいる親王は、失意の中にあっても幸いであったのではないかと思います。腹の探り合い、足の引っ張り合いで片時も気を抜けない藤原の面々には見えない景色が見られていたのではないでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      そんな偶然があったのですか。教えてくれてありがとうございます。それにしても長くしていますね。
      歌も何処に置かれるかで意味が違ってきますね。編集の巧みさに今更ながら驚かされます。
      この歌には、業平の惟喬親王への心からの愛情が籠もっていますね。皇位を桜の花にたとえるとは、さすがです。

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