《山桜を独占する》

題しらす  よみ人しらす

やまたかみひともすさめぬさくらはないたくなわひそわれみはやさむ (50)
又は、さととほみ人もすさめぬ山さくら

山高み人もすさめぬ桜花甚くな詫びそ我見はやさむ
里遠み人もすさめぬ山桜

すさむ:心のおもむくままに慰み事をする。慰み興ずる。

「山が高いので(里が遠いので)誰も来てもてはやすことをしない桜花よ。ひどくくよくよするな、私が観てもてはやそう。」

桜の花は、誰もが賞賛する。そのためにかえって歌にしにくい。ありきたりの歌になってしまう恐れがある。どう工夫するかが腕の見せ所だ。
この歌は、人里離れた高い山の中に咲く桜に対して、桜を擬人化する。「山桜よ。お前はこんなに美しいのに、誰にも観て貰えないので、さぞ気落ちしていることだろう。しかし、この私が慰めてあげよう、がっかりすることはないぞ。」と言う。そのことで、山桜の見事な美しさを伝えている。また、それを独占できる喜びを表している。
才能があるのに、正当な評価をされない人への慰めのたとえにも使えそうだ。あるいは、逆にその思いを使って、桜の花の美しさへの思いを表現したのかも知れない。

コメント

  1. すいわ より:

    私だけはあなたの美しさを理解しているから寂しがるものではないよ、と。
    山の奥深く一人咲く山桜、惟喬親王を思い起こしてしまいます。
    「山高み」だと人の側から遠い、孤高な山桜の印象、「里遠み」だと桜が人里を恋しがっているように感じます。
    山に入り木々の茂る中に薄紅の山桜があると、そこだけ仄かに灯りがともっているように見えて自然と目がいくものですが、高い高い山だとそもそも人の目に触れる機会さえない訳ですね。それでも、どこに置かれようと、誰も見ずとも桜の美しさは変わるものではありません。そのものを真っ直ぐに見つめる眼、見習いたいです。

    • 山川 信一 より:

      美とは、それを認める人がいてこその者です。それ自体で存在できる訳ではありません。人の評価しない美は、美ではありません。
      それは、まさに言語表現がそうであるように。誰かに読まれない言語表現は存在していないのと同様です。読まれ評価されて初めて存在できます。
      そういう表現の宿命と言うべきものを踏まえて作っているのでしょう。

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