《なぜそう見えるのか》

水のほとりに梅花さけりけるをよめる  伊勢

としをへてはなのかかみとなるみつはちりかかるをやくもるといふらむ (44)

年を経て花の鏡となる水はちりかかるをや曇ると言ふらむ

「年久しくずっと花の鏡となる水は、花が水面に散りかかるのを曇ると言っているのだろうか。」

「ちり」に「散り」と「塵」が掛かっている。鏡が曇るのは、塵がかかるからである。
この歌も前の歌と同様に背景に恋がイメージされている。鏡が曇るのは、長い間それを見なかったからだ。それは、恋に破れた自分の顔を見る気になれなかったためであろう。それで、鏡が塵で曇ってしまった。そんな経験が水に散りかかる梅の花に対して、このような見方をさせたのである。その風景とそれをそう見る作者とが二重写しになって感じられる。

コメント

  1. すいわ より:

    花咲く時も散り行く時も全て映して水は時と共に流れて行く。花びらが涙のようにはらはらと水面に散る。水鏡は「何やら曇って花を映せない」。現実を受け止めたくない女の思いを受けて水は女の姿を映さない。
    歳を重ね容貌が衰えての歌かとも思いましたが、春歌、失恋の痛手から鏡を覗かなくなり塵で曇ってしまった、に納得しました。

    • 山川 信一 より:

      作者の恋の有りようが水辺の梅の花に重なっていますね。「散り」と「塵」は単なる言葉遊びではありません。
      そう見る、見えてしまう作者の心の表れなのです。

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