第三十段  すべてが消えゆく

年月へてもつゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなしごと言ひてうちも笑ひぬ。からは、気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく卒塔婆も苔むし、木葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。思ひ出でてしのぶ人あらんほどこそあらめ、そも又ほどなくうせて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ心あらん人はあはれと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も千年を待たで薪にくだかれ、古き墳はすかれて田となりぬ。そのかただになくなりぬるぞ悲しき。

から:亡骸。遺骸。
気うとき:親しみにくい。気味が悪い。
こととふ:訪ねる。
よすが:縁者。
跡とふ:死後を弔う。

「その後、年月を経てもすべて忘れるわけではないけれど、去る者は日に日に疎遠になると言いっているように仕方がないことだから、忘れないとは言うけれど、その当座ほどは悲しみを感じられないのか、とりとめないことを言って笑いもするようになってしまう。亡骸は、人気がなく気味が悪い山中に納めて、定められた日にだけ詣でてはみると、ほどなく卒塔婆も苔が生え、木の葉が降り散り辺りを埋めて、夕の嵐、夜の月ばかりが話かけてくれる縁者になった。思い出して懐かしむ人がいる間はともかく、そういう人も程なく亡くなって、聞き伝えるだけの後代の人は、しみじみとした感慨を抱くか、抱きはしない。その上、死後を弔うことも絶えてしまうと、どこの人であると名前さえ知らず、年々の春の草だけを情趣ある人はしみじみと感慨深く見るであろうが、ついには、嵐にむせび泣くような音を立てていた松も千年の樹齢を待たず薪として砕かれ、古い墳墓はならされて田となってしまう。人を葬った跡さえなくなってしまうのがせつなく悲しいことだ。」

普段我々が目を背けている事実を露わに書いている。言われてみれば、全くその通りで、そのまま認めざるを得ない。読んでいると身につまされ、何も言えなくなる。
では、兼好法師は、それで何が言いたいのだろうか。我々はこのことを忘れずに生きていくべきだと言いたいのだろうか。たとえば、次のような理由で。目の前の雑事にばかりかまけて生きていると大事なことを見失う。だから、こういった厳然たる事実を意識して生きることがまともな生き方に我々を導いてくれる。それなら、わからないことはない。しかし、兼好法師がそう考えていた保証はない。兼好法師は、いつも自分の考えは書かない。読者に考えさせるばかりである。

コメント

  1. すいわ より:

    「人」という存在の確認とでも言うのか、事実を「つれづれなるままに」書き連ねて、兼好は思いを表さない事で受け止める側も好き勝手に受け取れる文章、なのでしょう。兼好の考えを求めてはいけないのでしょうね。
    今回、兼好は無に帰する事が悲しいと言っているけれど、現代はむしろ自然の循環から人間は外れてしまったことを改めて感じさせられました。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、兼好の言うところによれば、無常は悲しいことですね。しかし、それは常識を何処までもなぞっているだけです。
      彼の文章は、ごもっともなことの確認です。我々は、そこから観点を変えつつ批判的に読む必要がありそうですね。

タイトルとURLをコピーしました