《嘘による真実》

題しらす  よみ人しらす

をりつれはそてこそにほへうめのはなありとやここにうくひすのなく (32)

折りつれば袖こそ匂へ梅の花有りとやここに鶯の鳴く

袖こそ匂へ:「こそ」已然形の結びは、以下に逆接で続く。「袖は匂うが、梅はないのに」ということ。

「梅の枝を折り取ったので、その香が袖に移って袖が匂う。だから、梅の花がある訳ではない。それなのに、梅の花があるかと思って、袖の所で鶯が鳴くのか。」

梅の枝を折り取ったくらいで、その香が袖に移ることはない。鶯は臆病な鳥で滅多に姿を表さないから、袖の所に来て鳴くこともない。したがって、この歌で言っていることは、事実ではない。「嘘を言うんじゃない。これだから『古今和歌集』はダメなのだ。」と、正岡子規に批判されそうである。
しかし、短歌は感動を伝えるものである。その感動をどう表現するかは自由である。たとえ表現されたことが嘘であっても、その感動が真実であればいい。
梅と鶯の取り合わせをこんな風に味わえたら、どんなにいいだろう。それは作者ならずとも、誰しもの望みであろう。この歌は、そんな理想を読んだのである。この歌で言っていることが事実でないことは誰しもが知っている。だから、それをわざわざ指摘する野暮は言わない。読者は、その思いに共感するのである。

コメント

  1. すいわ より:

    写実が表現の全てではありませんものね。梅の枝を手折って花びらが散り、それを袖で受けたのだろうか?と想像しました。香りがそれで移ることはないけれど、そこに鶯が添えられることで姿のない梅の香りが視覚化されるかのように存在感を放ちます。

    飛躍しすぎですが、前の歌を受けて。「貴女の香りがまだ私の袖に残っているというのに、私の腕の中に貴女はいない。貴女を求めて私は憂い泣くのだ」

    • 山川 信一 より:

      なるほど、恋の歌として読むのですね。シチュエーションとしては、あり得ます。さて、『伊勢物語』に倣ってどんな物語を組み立てましょうか?

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