斎宮の野の宮におはしますありさまこそ、やさしく面白き事のかぎりとは覚えしか、「経」「仏」など忌みて、「中子」「染紙」など言ふなるもをかし。すべて神の社こそ、捨てがたく、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の気色もただならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿かけたるなど、いみじからぬかは。ことにをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布祢・吉田・大原野・松尾・梅宮。
斎宮:(さいぐう・いつきのみや)伊勢斎宮に奉仕する未婚の内親王や女王。
野の宮:斎宮が伊勢へ下る前一定の期間心身を清める仮の宮殿。京都の嵯峨野にある。
中子:(なかご)仏像は堂の中心に据えることから。
染紙:(そめがみ)経は、黄色に染めた紙に書いたので。
木綿:(ゆふ)コウゾの皮を裂いて糸状にしたもの。
「斎宮が野の宮にいらっしゃるご様子こそ、慎ましく晴れ晴れと心澄みわたることの極みであると思われたが、「経」とか「仏」などの言葉を忌み嫌って、「中子」とか「染紙」とか言うようなのも心惹かれる。すべて神社こそ見捨てがたく、優美なものであるなあ。古色蒼然とした森の様子も普通ではない上に、玉垣を結い巡らして、榊の枝に木綿を掛けているのなど、素晴らしくないことがあろうか。特に趣深く心惹かれる神社は、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布祢・吉田・大原野・松尾・梅宮。」
兼好は、神社に代表される、仏教に染まる前の日本古来の姿に心惹かれていたようである。それは、自身が神官の出であったこともあるのだろう。しかし、これは兼好特有の思いではあるまい。今の日本人にさえも通じる思いではないか。たとえば、神社には、古色蒼然としていても、清らかな明るさが感じられる。これは、日本人に今も尚、分け持たれている感情であろう。兼好はそれを意識して書いている。
このように、兼好は絶えず読者の共感を得るようなことしか書かないような気がする。それは、兼好には何か固有の思いがあって、後でそれを受け入れて貰うために、周到にその下地作りをしているからなのだろうか。
神社名を並べて述べるところは、『枕草子』の記述に倣っている。それへのオマージュであろう。
コメント
「経」「仏」など忌みて、「中子」「染紙」など言ふなるもをかし。←ここが気になりました。なぜ、「染紙」「中子」の順に書かなかったのでしょう?仏教に重きを置いていなかったということなのか?扱いが雑な印象を受けます。
「古き良きもの」を一貫して推奨していますね。安寧だった時代の再来を強く期待して「手引き」しているようにも思えます。先生が教科書と仰ったのがなんとなくわかって来ました。
たしかに、順序が逆ですね。私も気になりました。周到な兼好だからこそ気になりますね。
少なくとも『徒然草』は、結果的に優れた古典入門の教科書になっています。それが執筆の動機かどうかは測りかねますが。