第二十二段  尚古趣味

 なに事も、古き世のみぞしたはしき。今様は無下にいやしくこそなりゆくめれ、かの木の道のたくみの造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ、文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふ言葉も口をしうこそなりもてゆくなれ、「いにしへは、車もたげよ、火かかげよとこそ言ひしを、今やうの人は、もてあげよ、かきあげよ、と言ふ。主殿寮人数たて、と言ふべきを、たちあかししろくせよ、と言ひ、最勝講の御聴聞所なるをば、御講の廬、とこそ言ふを、かうろ、と言ふ。くちをし。」とぞ、古き人は仰せられし。

木の道のたくみ:大工・指物師。
いにしへ:客観的に過ぎ去った時代。「むかし」は主観的な過去。
主殿寮人数たて:(とももりょうにんじゅ)主殿寮の人数が立って松明を持って照射しろ。
たちあかししろくせよ:松明を明るくしろ。
最勝講の御聴聞所:(さいしょうこう・みちょうもんじょ)最勝請は、五月の吉日に五日間、清涼殿で金光明最勝王経を講じる法会。

「何事も古い世こそが恋しく思われる。当世風はむやみに下品になっていくようだが、指物師が作った美しい器物も、古代の姿こそが心惹かれて見えるが、手紙の言葉などが、昔の書き損じはどれも素晴らしい。話言葉もどんどん感心できないものになっていくが、「いにしえは、『車もたげよ(牛車の長柄を持ち上げろ)』、『火かかげよ(油火の灯心をかき上げて明るくせよ)』とこそ言ったのを、現代の人は、『もてあげよ』、『かきあげよ』、と言う。『主殿寮人数たて』、と言うべきなのを、『たちあかししろくせよ』と言い、最勝講を御聴聞する場所を、『御講の廬(ごかうのろ)』とこそ言うのを、『かうろ』と言う。いまいましい。」と、老人はおっしゃった。」

ひたすら古い時代のことを懐かしがり、貴んでいる。現代の物は、品がないと言う。例として、器物と言葉が上がっている。言葉は、書き言葉も話し言葉も、感心できないものになると言う。
昔の物が懐かしく、よく思えるのは、今も変わらない。これは万人の思いなのだろう。たとえば、現在、昭和の街を再現したテーマパークが流行っている。だから、昔を讃えていれば、誰にも文句は言われない。しかし、理屈から言えば、その時代の風物もその昔から変化したものなのだ。言葉であれば、自分が慣れ親しんだ言葉が最もいいように思えるのだ。結局、尚古趣味は、自分本位の考え方に過ぎない。しかし、そこまでの考察はなされていない。

コメント

  1. すいわ より:

    無い物ねだりと言いますか、「最近の若いものは」的とでも言えば良いのか。物や言葉の有り様について言っているけれど、今の「世」を暗に批判しているのかと思う程に一貫して「昔」を賛美していますね。わざわざ「老人」の言葉を借りて例示しているけれど、自分が言った言葉なのではないのか?正直なところ、現代人の私には老人の言わんとしているところの差が分かりません。言葉は「生き物」だから、その時代に生きる人に合わせて変わって行くもので、それを嘆いても詮ない事だと思います。

    • 山川 信一 より:

      言葉は、コミュニケーションの道具ですから、絶えず使いやすいように変化していきます。そういったところまでの考察はなされていませんね。
      無名の老人の言葉を引用したのは、過去の偉い人は、言葉の真理を知っていて、老人のぼやきに過ぎないこんなことを嘆かなかったからではないでしょうか。

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