さて冬枯の気色こそ秋にはをさをさおとるまじけれ、汀の草に紅葉の散りとどまりて、霜いと白う置ける朝、遣水より烟の立つこそをかしけれ、年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる比ぞ、又なくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の、寒けく澄める廿日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ、御仏名、荷前の使たつなどぞ、あはれにやんごとなき。公事どもしげく、春のいそぎにとりかさねて催しおこなはるさまぞいみじきや。追儺より四方拝につづくこそ面白けれ、つごもりの夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半過ぐるまで人の門たたき、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくののしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ、なき人の来る夜とて魂まつるわざは、この比都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそあはれなりしか、かくて明けゆく空の気色、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたしてはなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。
をさをさ:(下に否定語を伴って)「ほとんど」「少しも」。
遣水:寝殿造りで外から引き入れて庭園に作った流れ。
すさまじき:興醒めである。味気ない。
御仏名:(おぶつみょう)陰暦一二月一五日から三日間宮中で行われた法事。
荷前:(のさき)諸国からの貢ぎ物を朝廷から伊勢大神宮などに奉納すること。
追儺:十二月の三十日に行われる。疫鬼を追い払う儀式。「おにやらい」
四方拝:(しほうはい)元旦の寅の時(午前四時頃)天皇が清涼殿の東庭に出て、天地四方、父母の山稜を拝して災厄を祓い、五穀豊穣、天下太平を祈願した儀式。
足を空に惑ふ:足が地に着かないくらいあたふたすること。
「さて、冬枯れの様子こそ秋にはほとんど劣らないはずだが、池の水際の草に紅葉が散り留まって、霜がたいそう白く置いている朝、遣水から水蒸気が立つのこそ感興をそそられるのだが、年が押し詰まって、人それぞれに忙しがっている頃がこの上なくしみじみと趣深いものである。興醒めなものとして、見る者もいない月が寒々として澄んでいる二十日過ぎの空こそ心細さを催す美しさだが、御仏名の行事や荷前の使いが立つなど、しみじみとして尊くうち捨てておかれない。朝廷の儀式なども忙しく、春の準備に重ねて催しが行われる様子が素晴らしい。追儺から四方拝に続くのが面白いが、大晦日の夜、大層暗い頃に、松など灯して、夜なか過ぎまで人の門を叩き、走り歩いて、何事があるのだろう、ものものしく大声を出して、足も地に着かないくらいあたふた惑うのが暁方からさすがに音もしなくなってしまうのが、過ぎゆく年の名残もありなんとも心細いが、亡き人が来る夜として魂祭る行事は、この頃都には無いが、関東の方ではまだする習わしであったことがしみじみと趣深いが、こうして明けてゆく空の様子は、昨日に変わっているとは見えないけれど、様子が変わり珍しい気持がする。大通りの様子は、門松を立てて華やかに嬉しげなことこそまたしみじみと趣深いのだが・・・。」
冬の季節感も、伝統的な美意識のなぞりである。宮中の儀式を重んじる態度も一貫している。相変わらずそつなく慎重に筆を進めている。ただし、冬の月に心細いという美しさを見出しているところ、大晦日から元旦にかけての人々の様子を描くところに独自性が見られる。しかし、関東の大晦日の鎮魂祭に言及しているのは、やはり尚古趣味の表れである。
コメント
「すさまじきものにして、、」のところが上手く意味が取れませんでした。「寒けく澄める廿日あまりの空こそ、心ぼそきものなれ」、美しい月の浮かぶのを見る人もない事が味気ない、と取れば良いでしょうか?
年末の慌ただしい人々の様子が目の前に見えるようで上手い文章だなぁと思います。
そうではなく、普通、月は秋こそ趣深く、冬の月は見る価値の無い興醒めなものだと思われているけれど、そうでもないと言っているのです。
冬の月は寒々として見ていると心細くなるではないか。それこそがいいのだ。つまり、兼好法師は「心細さ」を感じさせるものに美を見出しているのです。
なるほど、「月と言えば秋、冬になど月を眺めるのは興醒めだ」という一般論に異をとなえ、寒空に浮かぶ冬の月の孤高な美しさを讃えているのですね。納得いたしました。冬の月に関する考え、共感できます。
月は、季節季節それぞれに味わいがあるものです。冬を切り捨てるべきではありませんね。
李白の『静夜思』「床前しょうぜん月光を看る/疑うらくは是これ地上の霜かと/首こうべを挙げて山月を望み/首を低たれて故郷を思う」を踏まえているのでしょうか?