第十九段 四季への思い ~夏~

「灌仏会の比、祭の比、若葉の梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人のおほせられしこそ、げにさるものなれ、五月、あやめふく比、早苗とるころ、水鶏(くいな)のたたくなど、心ぼそからぬかは。六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓又をかし。

灌仏会:(かんぶつえ)釈迦の誕生日陰暦四月八日に行う法会。花御堂を作り、誕生仏を安置し、甘茶をかけて供養する。
祭:賀茂神社の祭。葵祭。四月の中の酉の日に行われる。
心ぼそからぬかは:「心細し」は、美的感覚を表す。「かは」は反語を表す終助詞。
六月祓:(みなづきばらえ)六月三十日に行う大祓。夏越の祓。

「『灌仏会の頃、葵祭の頃、若葉の梢が涼しげに茂っていく時分こそ、世のしみじみとした情趣も、人の恋しさも一段と募るが・・・』と、ある人がおっしゃっていたことこそ、なるほどその通りであるが、五月になって、端午の節句にアヤメを軒に挿す頃、早苗を取る頃、水鶏が戸を叩くような声で鳴くなど、心細くて、情感に訴えないだろうか。六月の頃、粗末な家に夕顔の花が白く見えて、蚊遣火を煙らせるのも、しみじみと趣深い。六月の祓えの行事もまたおもしろい。」

四月・五月・六月の情趣を挙げ、夏には夏のよさがあることを表している。「ある人」が誰であるかは明らかではないが、引用は説得力を持たせるための兼好法師の得意技である。視覚はもちろんのこと、「水鶏」で聴覚に、「蚊遣火」で嗅覚に訴えている。文末は、「こそ」已然形の係り結び、反語、形容動詞、形容詞と変化を持たせている。凝った文章である。
「夕顔」の描写は、『源氏物語』夕顔の巻を踏まえてのものである。古典への誘いが感じられる。

コメント

  1. すいわ より:

    「夏」とはっきり明言してはいないけれど、4月5月6月とかっちり分けて書いていますね。筆が乗って来たのか?昨日の「春」は藤の花おぼつかな、の藤の如くぼんやりと書いていて、と言いますか、山吹、藤って4月5月頃の花です、桜にも触れないし。人里離れた鄙びた所に住んでいたのか?と思ってしまいます。
    毎度の引用、誰とはっきり言ってはいないけれど、「おほせられし」ですものね、その辺の人ではなく、なのでしょう。並べ立てて書かれているのが「枕草子」みたいだと思っていたのですが「夕顔」、源氏物語ですか。古典を随所に盛り込んで来て、成る程、古典の「教科書」ですね。

    • 山川 信一 より:

      当時は、1月2月3月が春に当たり、4月5月6月が夏に当たります。今なら3月~5月が春、6月~8月が夏ですね。だとしたら、山吹や藤が春に入っていても不思議ではありません。
      桜への言及はあります。「花もやうやう気色だつほどこそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。」がそれです。「花」と言えば桜のことですから。
      季節に関する記述は、『枕草子』を意識していますよね。加えて、さりげなく『源氏物語』も暗示しています。「いにしえは、そして、古典の世界はいいものですよ~」と言いたいのでしょう。

タイトルとURLをコピーしました