第二段 俗物批判

いにしへのひじりの御世の政をもわすれ、民の愁、国のそこなはるるをも知らず、よろづにきよらをつくしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
「衣冠より馬・車にいたるまで、有るにしたがひて用ゐよ。美麗をもとむる事なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。

きよら:美しいこと。美麗。
所せきさま:おおげさだ。重々しい。
うたて:いやらしく、嘆かわしく。情けなく。
九条殿の遺誡:右大臣藤原師輔が残した訓戒。
順徳院:八十四代の帝。

禁中:宮中。皇居。順徳院の書いたものとは、『禁秘抄』という宮中の有職故事に関する書物。
おほやけの奉り物:天皇のお召し物。
おろそかなる:粗末だ。簡素だ。

「いにしえの聖の御世の政治を忘れ、民の心配、国が損なわれるのも知らず、万事に付け美麗を尽くして素晴らしいと思い、大げさな様子をしている人こそ、情けなく、感心するところもなく見えるが・・・。
『衣冠から馬・車に至るまで、あるがままに用いなさい。美麗を求めてはいけない。』と、九条殿が残された戒めにもございます。順徳院の宮中の事などをお書きになった書物にも『天皇のお召し物は、粗末であるのをよしとする。』とございますがねえ・・・。」

第二段は、第一段の内容を受けて言っている。そもそも『徒然草』の段分けは、後世の者によってなされたもので、作者自身が分けたものではない。したがって、読む時は繋がりを意識して読まなければならない。つまり、ここは、「それより下つ方は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど」と言うところの成り上がりの「下つ方」について言っているのである。
反論の余地のない常識的な内容である。その根拠を権威に求めているところに特色がある。偉い人も言っているので、自分の言うことも正しいと論証している。ただ、これは、作者が権威主義であることを示すよりも、自身の教養を誇示するためであるように思える。なぜなら、言っていることは殊更権威を持ち出さなくてもその通りであるから。
そしてまた、最後は「こそ・・・已然形」の係り結びを使い、言い切っていない。

コメント

  1. すいわ より:

    これが私的な日記ならば兼好が「そういえば、あの方もこんなこと言っていたなぁ」と書いても、この人はこういう人なんだな、と思えなくもないのですが、人に読ませるつもりで書いていると思うと、なんとも煮え切らなく、、。←こんな感じですね。私は言ってしまいますよ、読んでいてイライラします。兼好さん、それで貴方はどうしたいの?どうするの?自分の立ち位置をはっきりさせたくないのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      ペダンティック(衒学的)ですね。自分はこんなことも知っているのだと示すための文章のような気がします。
      「私の考えはまあそんなところです。お察しください。」とでも言いたいのでしょう。

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