今の歌人の状況②

ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。

在原業平は、逆に思いが勝って、それを表す表現が不十分だ。思いを伝え切れていない。たとえて言うなら、萎んだ花が色を失って、匂いが残っているような感じだ。
たとえば、次の歌がある。
「月やあらぬ花や昔の春ならぬ我が身一つは元の身にして」
この歌に込められた思いのたけは、この表現からは十分に伝わってこない。この歌は、『古今和歌集』(恋歌五)の冒頭に置かれているが、異常に長い詞書きがついている。そうでなければ、思いが伝わらないからだ。『伊勢物語』が業平の歌をベースに成立したのもそれによるのだろう。

ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人の、よききぬきたらむがごとし。

文屋康秀は、表現は巧みであって、その歌のありようは内容にふさわしくない。言わば、商人が良い着物を着ているような感じだ。
たとえば、次の歌がある。
「吹くからに野辺の草木の萎るればむべ山風を嵐と言ふらむ」
感動に対して、技巧が先行している。理が勝ち過ぎているのだ。歌は感動と技巧とが釣り合っていなければいけない。貫之はこう言いたいのだろう。

宇治山のそうきせんは、ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず。

宇治山の僧喜撰は、表現が頼りなくて、始め終わりが確かでない。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあったようだ。詠んだ歌が多く知られていないので、あれこれを通して十分に判断できない。
たとえば、次の歌がある。
「我が庵は都の辰巳しかぞ住む世をうぢ山と人は言ふなり」
「よをうぢ山」に〈宇治山〉と〈憂し山〉を掛けたのだが、何が言いたいのか、趣旨が摑めず、物足りなさが残る。貫之はこう言いたいのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    歌を評しているけれど、歌を詠んだ人の人となりが窺えるようで、ここまで書いてくれると痛快ではありますが、立場的に貫之、大丈夫なのかしらと思ってしまいます。でも、名の通った人の詠んだ知られた歌だからこそ読む人に説得力を与えられるのでしょう。貫之、捨身ですね。

    • 山川 信一 より:

      貫之は、あくまでも人間ではなく、和歌を論じています。人間と和歌を切り離しているから、ここまで歯に衣を着せぬ批判ができます。
      それほど和歌を愛しているのです。和歌を少しでもよいものにするには、この態度が必要なのです。貫之自身、同様の批判は受けて立つはずです。
      現代の学者はこの姿勢を見習うべきでしょう。

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