九日、こころもとなさにあけぬからふねをひきつゝのぼれどもかはのみずなければゐざりにのみゐざる。このあひだにわだのとまりのあかれのところといふところあり。よねいをなどこへばおこなひつ。かくてふねひきのぼるになぎさの院といふところをみつゝゆく。その院むかしをおもひやりてみれば、おもしろかりけるところなり。しりへなるをかにはまつのきどもあり。なかのにはにはむめのはなさけり。こゝにひとびとのいはく「これむかしなだかくくきこえたるところなり。」故これたかのみこのおほんともに故ありはらのなりひらの中将の「よのなかにたえてさくらのさかざらははるのこゝろはのどけからまし」といふうたよめるところなりけり。いまけふあるひとところににたるうたよめり、
「ちよへたるまつにはあれどいにしへのこゑのさむさはかはらざりけり」
またあるひとのよめる、
「きみこひてよをふるやどのむめのはなむかしのかかにぞなほにほひける」
といひつゝぞみやこのちかづくをよろこびつゝのぼる。
問1「よのなかにたえてさくらのさかざらははるのこゝろはのどけからまし」は『古今和歌集』では、三句目が「なかりせば」になっている。なぜ、「さかざれば」に変えたのか、答えなさい。
問2 次の歌を鑑賞しなさい。
①「ちよへたるまつにはあれどいにしへのこゑのさむさはかはらざりけり」
②「きみこひてよをふるやどのむめのはなむかしのかかにぞなほにほひける」
少しでも早くと、夜が明けるのを待ちかねて夜明け前から船を引きながら上るけれど、川の水が無いので、まるで膝で進むようにしか進まない。こうしている間に「曲の泊まりの別れの所」と言う所がある。物乞いが米や魚を乞うので、施した(昨日貰った魚だろうか)。こうして船を引き上るうちに渚の院という所を見ながら行く。その院は、昔を思いやってみれば、目を引く風情のあるところである。後方の岡には松の木などがある。中の庭には梅の花が咲いている。ここで人々が言うことには「これは昔有名だったところである。」故惟喬親王のお供に故在原業平の中将が「世の中に全く桜が咲かなかったなら春を過ごす心はのどかなことだろう」という歌を詠んだ所であった。
この歌は、『古今和歌集』にある歌と違っている。これは、貫之による業平の歌の添削である。眼前に桜が咲いているなら、「なかりせば」と否定すればいい。しかし、冬である今なら、咲いていることを想像させる必要がある。歌は、このようにその場面にふさわしい形にしなければならないと考えたのだ。あるいは、一般的に言っても、「なかりせば」と漠然と言うよりも「さかざれば」と焦点を絞って言った方がよいと考えたのかもしれない。人々の関心は「咲く」ことにあるだから。(問1)
今、今日ここに居合わせた人が場所柄にふさわしい歌を詠んだ。
「長い年月を経た松ではあるけれど、その様子から今でもいにしえの惟喬親王や在原業平中将のお声が聞こえてくるようだ。それは、この松と同様に少しも変わらないことだなあ。」ここで、「声の寒さ」と言うのは、お二人の不遇、悲しみを思いやっているからである。(問2①)
『伊勢物語』の一場面を出してきたのは、『伊勢物語』の作者が貫之であることを暗示しているからだろう。
また、ある人が詠んだ、
「惟喬親王を恋い慕って年月を経た梅の花は、昔の香りこそが今もなお匂っていることだなあ。親王は亡くなられたけれど、梅の花は、親王を忘れることなく、今でも親王を恋い慕っているのだ。」
「人はいさ心も知らず故郷は花ぞ昔の香に匂ひける」(『古今和歌集』紀貫之)を連想させる。人は人を忘れることがあっても、梅の花は人を忘れないのだ。ここでも、『土佐日記』の作者が貫之であることを暗示している。(問2②)
と言いながら都が近づくのを喜びながら上る。
コメント
物乞いに施しをしたのですね。船を曳かねばならない状況を見て取った人達が引き手となってその対価を請求したのかと思いました。
惟喬親王への思いの深さの感じられる一節ですが、伊勢物語を振り返ると、やはり作者は貫之なのではと思わずにはいられません。
三つの歌、桜は視覚、松は聴覚、梅は嗅覚とあらゆる感覚を研ぎ澄ませて世界を受け止めているのだと思いました。
「わだのとまりのあかれのところ」という地名を出してきているのですから、それで何かを伝えているのでしょう。恐らく物乞いなどが集まる場所だったとか。
物乞いたちもただ貰う訳ではなく、船を引くまねごとくらいはしたかもしれませんね。
貫之は、『土佐日記』の作者であることを隠す一方、そうであることのヒントを随所に出していますね。
三つの歌が「桜は視覚、松は聴覚、梅は嗅覚」によって作られているというご指摘、納得しました。確かにその通りですね。