鏡をたいまつる

かくいひてながめつづくるあひだに、ゆくりなくかぜふきて、こげどもこげどもしりへしぞきにしぞきてほとほとしく うちはめつべし。かぢとりのいはく「このすみよしの明神れいのかみぞかし。ほしきものぞおはすらむ」とはいまめくものか。さて「ぬさをたてまつたまへ」といふにしたがひてぬさたいまつる。かくたいまつれどももはらかぜやまで、いやふきにいやたちにかぜなみのあやふければかぢとりまたいはく「ぬさにはみこころのいかねばみふねもゆかぬなり。なほうれしとおもひたぶべきものたいまつりたべ」といふ。またいふにしたがひて「いかゞはせむ」とて「めもこそふたつあれ。ただひとつあるかがみをたいまつる」とてうみにうちはめつればいとくちをし。されば、うちつけにうみはかがみのごとなりぬれば、あるひとのよめるうた、
「ちはやぶるかみのこゝろのあるゝうみにかがみをいれてかつみつるかな」。
いたくすみのえのわすれぐさ、きしのひめまつなどいふかみにあらずかしめもうつらうつらかがみにかみのこころをみつれ。かぢとりのこころはかみのみこころなりけり

かく言ひて眺め続くる間に、ゆくりなく風吹きて、漕げども漕げども後へ退きに退きてほとほとしくうち嵌めつべし。舵取の曰く「この住吉の明神は例の神ぞかし。欲しき物ぞ御座すらむ」とは今めくものか。さて「幣を奉り給へ」と言ふに従ひて幣たいまつる。かくたいまつれども専ら風止まで、いや吹きにいや立ちに風浪の危ふければ舵取又曰く「幣には御心のいかねば御船も行かぬなり。猶嬉しと思ひたぶべき物たいまつりたべ」と言ふ。又言ふに従ひて「いかゞはせむ」とて「眼もこそ二つあれ。ただ一つある鏡をたいまつる」とて海にうち嵌めつればいと口惜し。されば、うちつけに海は鏡のごとなりぬれば、或人の詠める歌、
「ちはやぶる神の心の荒るる海に鏡を入れてかつ見つるかな」。
甚く住の江の忘草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。目もうつらうつら鏡に神の心をこそは見つれ。舵取の心は神の御心なりけり。

ゆくりなく:思いがけなく。不意に。
ほとほとしく:すんでのところで。
うちはめつべし:船を海の中に投げ入れてしまうところだった。
明神:原文でも拗音を含むので漢字表記。
れいのかみぞかし:例の金銭で願いを叶える神ですぞ。「ぞかし」は念押しの終助詞。
いまめくものか:現代風な神であるなあ。当世風で現金な神であるなあ。
たいまつる:「たてまつる」の口語語の形。
もはら:少しも。全然。
いやふきにいやたちに:「いや」はいよいよ、ますますの意。風波が激しくなってきたことを言う。
ぬさにはみこころのいかねば:幣では満足がいかないから。
おもひたぶべきもの:「たぶ」は「たまふ」と同じで、尊敬の補助動詞。「お・・・なる」
いかがはせむ:(どうしようか)しかたがない。
くちをし:残念だ。いまいましい。
うちつけに:急に。途端に。
かつみつるかな:すぐに見てしまったことだなあ。
いたく:ずいぶんと。ひどく。
うつらうつら:はっきりと。まざまざと。

問1「(鏡を)うみにうちはめつればいとくちをし」と言うのは、なぜか説明しなさい。
問2「いたくすみのえのわすれぐさ、きしのひめまつなどいふかみにあらずかし。」とは、どのような思いを表しているのか、「ちはやぶる」の歌を踏まえて説明しなさい。
問3「めもうつらうつらかがみにかみのこころをみつれ。かぢとりのこころはかみのみこころなりけり。」は、どのような思いを表しているのか、説明しなさい。

コメント

  1. すいわ より:

    問一 乗船客にとって海が荒れる事が一番の気掛かりだという事を承知した上で、舵取りがまるで自身が神の宣託を得たとばかりに幣や、それでは足らず、たった一つしかない貴重な鏡を海に捧げるよう指図してきて、それに従わざるを得ない事が悔しくてならない。
    問ニ 幣を奉っただけでは足りず、泣く泣く鏡も捧げた。そうしたら、荒れていた海が捧げた鏡の如く忽ち鎮まってしまった。なんとまぁ、分かりやすく現金な事か。先に波が立ちませんようにとひたすらに祈りを捧げた、住吉の神とは全く違った神なのではなかろうか。同じ神とは思えない、ということを言っている。
    問三 荒れる海を鎮める神の霊験が鏡を奉った事で露骨に現れた為、強欲な舵取りのそれと重なり、鼻白んでいる。

    • 山川 信一 より:

      問題設定の意図を受け止めてくれました。期待通りのお答えです。この個所は舵取との確執を表現しています。
      例の神の心は、まさに舵取と同じく強欲な心だったのですね。

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