和泉の国

四日、かぢとり「けふかぜくものけしきはなはだあし」といひてふねいださずなりぬ。しかれどもひねもすになみかぜたゝず。このかぢとりはひもえはからぬかたゐなりけり。このとまりのはまにはくさぐさのうるわしきかひいしなどおほかり。かゝればただむかしのひとをのみこひつゝふねなるひとのよめる、
よするなみうちもよせなむわがこふるひとわすれかひおりてひろはむ
といへれば、ある人たへずしてふねのこころやりによめる、
わすれがひひろひしもせじしらたまをこふるをだにもかたみとおもはむ
となむいへる。をんなごのためにはおやをさなくなりぬべし。たまならずもありけむをとひといはむや。されどもししこかほよかりきといふやうもあり。なほおなじところにひをふることをなげきて、あるをんなのよめるうた、
てをひでゝさむさもしらぬいづみにぞくむとはなしにひごろへにける

問1「このかぢとりはひもえはからぬかたゐなりけり」とあるが、なぜこう言うのか答えなさい。
問2「忘れ貝」についての二つの歌の思いの違いを説明しなさい。
問3「をんなごのためにはおやをさなくなりぬべし」と言うのはなぜか、説明しなさい。
問4「てをひでゝさむさもしらぬいづみにぞくむとはなしにひごろへにける」を鑑賞しなさい。

舵取の判断で船を出さなかった。ところが、天気が回復した。舵取は、判断を誤ったのだ。舵取は、天候も予測できないバカヤロウだった。一刻も早く京に帰りたいのに、これでは何のための舵取なのか。ただ、ここまで罵るには訳がある。これまでも、欲深さにうんざりしていたし、船の主導権を握る偉ぶった態度が気に入らなかったので、その不満が爆発したのだ。(問1)
波風が立たないので、港は穏やかである。浜には様々な美しい貝や石が多く見られる。こうしているうちに、土佐で亡くなった女の子を恋しく思う人が詠んだ、
「寄せる波よ、何度も打ち寄せて欲しい。そうしたら、私が恋しく思っている人を忘れることができる忘れ貝を船から下りて拾おうと思う。」
と言ったところ、ある人が感に堪えられなくなって船旅の慰めに詠んだ、
「忘れ貝を殊更拾うこともすまい。白玉のように大切で可愛かったあの子。あの子を忘れることなく、せめて恋しく思うことだけでも、亡き子の形見としよう。」
前者は、いつまで経っても亡き子を忘れることができず、そのつらさに耐えられない。だから、忘れ貝によっていっそのこと忘れてしまいたいと言う。後者は、忘れ貝を拾ってしまったら、亡き子を恋しく思うことさえできないではないか。それでは、あの子があまりの可哀想だ。このつらさに耐えることが亡き子の形見なのだと言う。(問2)
父母は、「忘れ貝」を題材にたわいの無いやり取りをしている。しかも、父親は亡き子を「白玉」にたとえている。しかし、知っている人は、「玉」にたとえられるほど可愛くはなかったというかもしれない。亡くなった子は、顔がよかったと言うこともある。亡き子を思うと、親は、その子を無分別に美化しがちなのだ。(問3)
ある女が詠んだ歌、
「ここは、手を漬しても冷たさを感じない泉、すなわち和泉の国なのだ。泉の水を汲むこともなく、つまり、何の甲斐もなく何日も経ってしまったことだなあ。」
泉なら手を漬して、水を汲みたくなるもの、それが人情であろう。真冬なので、水を汲めば、手が冷たくなるだろう。それでも、水を汲むことはできる。しかし、ここはその名を持つだけの和泉の国だから、手を漬すことも水を汲むこともできない。ただただ空しく日を過ごすばかりである。手持ち無沙汰な思いを和泉にこと寄せて詠んでいる。(問4)

コメント

  1. すいわ より:

    問三、思い違いをしました。女の子の両親のやり取りを言っていたのですね。「寄する波」の歌、子を亡くした悲しみに暮れるあまり、何もかもを忘れてしまいたい、と身も世もなく涙する様子を幼な子と捉えたのかと思いました。親(両親)幼く、なのですね。
    それと、二つの忘れ貝の歌、両親それぞれの歌だとは思ったのですが、「寄する浪」が母、「忘れ貝」が父だと思いました。一月十一日のエピソードが印象深いせいもあるのですが、娘を美化するのは父かなぁと、そして忘れ貝の歌の方が理性的な所でそう思いました。

    • 山川 信一 より:

      「寄する浪」が母、「忘れ貝」が父という見方の方がいいかもしれません。母親が感情にまかせて言ったことを冷静に理性的に受け止めたのが父親。その方が男女の差が出て納得できますね。その方が自然です。それに賛成します。
      ただ、ここは敢えてその区別をしていません。どちらに読むかは、読者に任されているのでしょう。盲目の愛・無償の愛を捧げるのが父親、どこか覚めているのが母親というケースもあります。
      父母が、男女がいつもそうだとは決まっていません。読み手の受け取り方に任せたのでしょう。

      • すいわ より:

        先生の下さったコメントを読んで、なるほど、と思いました。まず初めに読んだ時に、実は女の子の母親とその親しい女友達かと思ったのです。身内でない分、理性的に慰めたのかと。人の子だから「白玉(あなたの大切な宝物の子)」と例えた。でも、2回目読んでみて、嘆きを直接ぶつけるのなら、相手は夫の方が自然だと思いました。当時は子供が大人になるまで育たないこともままあったでしょうから、子を失う経験のある人は結構いたはず。関係性や性別を曖昧にして読む人によって如何様にも取れる書き方をしていると思うと、このサラリと書かれた文章の凄さを感じました。

        • 山川 信一 より:

          誰が読んだのかをはっきりさせないとこで、誰が読んだのかを想像する楽しみもありますね。その楽しみを提供したのでしょう。
          歌には、相手を特定するもの、たとえば相聞もありますが、ここでの歌はまわりの人に聞いて貰えるように詠んだのではないでしょうか?少なくとも書き手は聞いていますから。

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