本格的な舟の旅

かくて宇多のまつばらをゆきすぐ。そのまつのかずいくそばく、いくちとせへたりとしらず。もとごとになみうちよせえだごとにつるぞとびかふ。おもしろしとみるにたへずしてふなびとのよめるうた、
「みわたせばまつのうれごとにすむつるはちよのどちとぞおもふべらなる
とや。このうたはところをみるにえまさらず。かくあるをみつゝこぎゆくまにまに、やまもうみもみなくれ、よふけて、にしひんがしもみえずして、てけのことかじとりのこころにまかせつ。をとこもならはねばいともこころぼそし。ましてをんなはふなぞこににかしらをつきあてゝねをのみぞなく。かくおもへばふなこかじとりはふなうたうたひてなにともおもへらず。そのうたふうたは、
「はるののにてぞねをばなく。わがすすきにててをきるきる、つんだるなを、おややまぼるらむ、しうとめやくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこず、おのれだにこず」。
これならずおほかれどもかかず。これらをひとのわらふをききて、うみはあるれどもこころはすこしなぎぬ。かくゆきくらしてとまりにいたりて、おきなひとひとり、たうめひとり、あるがなかにここちあしみして ものもものしたまはでひそまりぬ

かくて宇多の松原を行き過ぐ。その松の數幾そばく、幾千年へたりと知らず。元ごとに浪打ち寄せ枝ごとに鶴ぞ飛び交ふ。おもしろしと見るに堪へずして船人の詠める歌、
「見渡せば松の末ごとに住む鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる」
とや。この歌は所を見るにえ勝らず。かくあるを見つゝ漕ぎ行くまにまに、山も海も皆暮れ、夜更けて、西東も見えずして、天気のこと舵取りの心に任せつ。男も習はねばいとも心細し。まして女は船底に頭を突き当てて音をのみぞ泣く。かく思へば舟子舵取りは船歌歌ひて何とも思へらず。その歌ふ歌は、
「春の野にてぞ音をば泣く。我が薄にて手を切る切る、摘んだる菜を、親やまほるらむ、姑や食ふらむ。帰らや。昨夜のうなゐもがな。銭請はむ。空言をして、おぎのりわざをして、銭も持て来ず、己だに来ず」。
これならず多かれども書かず。これらを人の笑ふを聞きて、海は荒るれども心は少し凪ぎぬ。かく行き暮らして泊に至りて、翁人一人、専女一人、有るが中に、心地悪しみして物もものし給はで潜まりぬ。

おもしろし:急に視界が開けるようにぱっと目を引くこと。
どち:仲間。友。松の梢に住む鶴が松を千年来の友と思っているということ。
べらなる:・・・に違いないようだ。
てけ:天気。「てんけ」の「ん」を表記しない形。
ねをのみぞなく:声を上げて泣いてばかりいる。
まほる:食べる。
うなゐ:子どもの髪型をした子。ここでは若い娘を言う。
おぎのりわざ:掛け値(=代価をあと払いにして)で買うこと。
舟歌の内容:民謡であり、一種の労働歌。妻のために手を切ってまで採った菜を今頃親や姑に食べられているのか、帰ってやろうか。(妻への思い。)昨夜の娘っ子にもう一度会いたいなあ。金を請求しよう。あの子は嘘を言って掛け値をして、金も持ってこない。自分さえ来ない。(女に何もできず、金だけ取られたことをぼやいている。)
たうめ:老女。
あるがなかに:一行の中で。
ここちあしみして:心地が悪い状態であって。(船酔いをしたのである。)
ものもものしたまはでひそまりぬ:物も召し上がらないでひっそりとなってしまった(=寝てしまった)。「ものし」は、代動詞「ものす」。ここでは食べる事を言う。

問1 なぜ「このうたはところをみるにえまさらず」と言うのか、答えなさい。
問2 「こころはすこしなぎぬ」と言うのは、なぜか答えなさい。

コメント

  1. すいわ より:

    問一 筆舌に尽くしがたいと言う通り、海岸沿いに続く松原に遊ぶ鶴、思わず歌を詠んだ人がいたけれど、歌に詠みきれない素晴らしい景色だった

    松波鶴とめでたげで留袖の模様を思い浮かべてしまいました。

    問二 荒れる海に旅人たちは男も女も心細く、恐ろしく思っているところ、船頭は慣れたもの、面白可笑しい戯れ歌(かなり馬鹿馬鹿しい内容だったのか、書きつけるに及ばないと思った)を歌って座を和ませた。海の荒れるのと心の凪ぐのを対比させていますね。

    • 山川 信一 より:

      問1 その通りです。経験>イメージ>言葉ですから、言語表現は必然的に貧弱になります。この言葉は、その風景の素晴らしさを伝えるために、歌とセットに知ることで読み手の想像力に訴えているのでしょう。留め袖の柄を連想されるのは、想像力豊かですね。
      「鶴」は、歌では「たづ」(雅語)が使われています。ところがここは「つる」が使われています。もしかすると、この鳥は「鶴」ではなく、別の鳥(コウノトリとか)だったのかもしれません。
      問2 余裕綽々の船頭たちの様子に安堵したのでしょう。海なので、「凪ぐ」を使いました。

      • すいわ より:

        実は私も海辺に鶴?と思っておりました。淡水のイメージがあります。青鷺かもしれない、と思いました。

        • 山川 信一 より:

          要するに海鳥なのでしょう。「たづ」と言わないことで、それを表しているのでしょう。

  2. すいわ より:

    「天気」がこんなに古い時代から使われていた言葉だった事に驚きました。

    • 山川 信一 より:

      和語なら「ひより」でしょうか?しかし、天気という言葉の意味に惹かれたのでしょう。この現象を言い当てていますからね。
      仮名で「てけ」と書いてあるので、この時代には既に日常化していたのでしょう。

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