雄大な風景

八日、さはることありてなほおなじところなり。こよひのつきはうみにぞいる。これをみてなりひらのきみの「やまのはにげていれずもあらなむ」といふうたなむおもほゆる。もしうみべにてよまゝしかば「なみたちさへていれずもあらなむ」とよみてましや。いまこのうたをおもひいでゝあるひとのよめりける、
「てるつきのながるゝみればあまのかわいづるみなとはうみにざりける」
とや。

問1「「なみたちさへていれずもあらなむ」とよみてましや」からどういう気持ちがわかるか、答えなさい。
問2「てるつきのながるゝみればあまのかわいづるみなとはうみにざりける」にどんな思いを込めているか、答えなさい。

「さはること」とは、何なのか具体的に記していない。陰陽道によるものなのか何なのか些か気になるところではあるが、それを省いたのは、この日の趣旨にノイズだからだろう。
この日は、朝から風が無くなって好天になった。天気が回復しているのに、出航できないのはイライラを募るだろう。ところが、この日の記述からは全くそれを感じない。むしろこの日の天気のように晴れ晴れとした思いが伝わってくる。
それは、その夜の海辺での月の美しさに感動しているためである。月が海に沈んでいく。沈まないでいつまでも愛でていたいと願う。あれ程、恨んでいた波に立ってほしいとさえ思う。(問1)月が海に沈む様子をつぶさに眺めたのは初めてだったのだろう。天の川を流れる月、それを映し出す大海原。雄大な風景に心奪われている。月も天の川も海へと流れているのだった。「うみにざりける」の「ける」は、言葉として知っていたことをこの目で確認したことへの感動を表している。(問2)
「さはること」が有ったからこそ味わえた経験だった。今になって、この地を去るのが惜しくなっている。この時の「惟喬親王」は、共にこの風景を味わう誰かだったのだろうか。この地、そのものだったのだろうか。

コメント

  1. すいわ より:

    障りとあるので誰かの具合が悪いのかと思いました。そう言えば占いで方違えとか、平安の人はしますね。
    凪いだ海の面にも月が映って海と空の境界が無くなり、二つの月がやがて一つになって静寂の闇にとけていく、なんとも美しい光景ですね。二つの月が界隔てられた天の川を渡る牽牛織女のようでもあります。鬱々と船出を待った何日間が帳消しになるくらい感動したのでしょう。月を人に例えると何やら艶っぽくなりますが、この光景を共有したい誰かがいたというより、この美しい土地そのものへの分かれ難さなのだと思います。

    • 山川 信一 より:

      「さはることありて」と言えば、当時の読み手は何となくわかったのでしょう。理由はいろいろあり、何でもよさそうです。
      月・天の川・大海原、幻想的な風景が目に浮かんできます。この風景こそ、京にいては見ることできなかったものです。この地に来た者だけの特権です。
      そうですね、やはりこの日の記述は、歌を含めてこの地との別れ難い思いを述べているのでしょう。そう思うと、この歌はいっそう味わい深くなります。
      ところが、ある注釈書はこの歌を次のように評しています。「きわめて子供っぽい発想」(萩谷朴・影印本・土佐日記)この人は、文脈をまったく読めていません。

  2. らん より:

    なんとも言えない幻想的な風景が浮かんでうっとりしてます。
    きれいですねえ。
    ある注釈書の人、私たちと共感出来なくて残念ですね。

    • 山川 信一 より:

      古典は、注釈書を当てにしないで、まず自分の頭で考えて読んでいくことが大事です。
      それには、表現をしっかり押さえていくことが必要です。

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