四日、かぜふけばえいでたゝず。まさつらさけよきものたてまつれり。このかうやうのものもてくるひとになほしもえあらでいさゝげわざせさす。ものもなし。にぎはゝしきやうなれどまくるこゝちす。
問 「にぎはゝしきやうなれどまくるこゝちす」とは、どんな思いか答えなさい。
「まさつら」がどのような人物かはわからない。しかし、書き手にとって、その関係を書く必要がないほどよく知る人物なのだろう。それを思わせる書き方である。そういった人物が他にもいたようだ。出入りする人は賑やかなほど多く、それに伴い贈り物も多い。贈り物が引きも切らず届くのは、それだけ慕われていたからであり、嬉しいことではある。しかし、貰う一方で碌な返礼ができず、引け目も感じている。旧国司の人柄なのだろう、差し引き得して良かったとは思えないのだ。
コメント
旧国司の律儀な性格がこの記述だけでも伝わってきます。進まぬ旅の疲れもさることながら、お付き合いの気苦労もなかなかのもので、時代が移り変わっても人のあり様というのはそうそう変わらないものなのですね。移動そのものが一仕事、気の毒になります。
過分な贈り物に引け目を感じるというのは、現状への皮肉、批判にもなっています。人は本来こうあるべきなのです。それがいつしか正常な感覚が麻痺して、何とも思わなくなります。
それが当時の国司たちの姿だったのでしょう。それを踏まえて書いています。
『土佐日記』には小説の趣が感じられます。西洋で小説というジャンルが生まれるずっと以前に貫之はそれを試みているのではないでしょうか。