あるひと、あがたのよとせいつとせはてゝれいのことゞもみなしをへて、げゆなどとりて、すむたちよりいでてふねにのるべきところへわたる。
「あるひと」は、対象をぼかしている。この日記の筆者とは別人であると思わせるためだ。それほど、貫之は作者が自分だと思われたくないのである。その理由が気になる。
「あがたのよとせいつとせ」は、国司の任期を表している。しかし、別の言い方もできる。すばり、〈国司の任期〉でもいい。「あがたのよとせいつとせ」と言うところに、書き手の思いが表れている。
「あがた(=田舎)」に四五年も居たことを前面に出しているのだ。当時は任地に赴かない者もいたと言う。しかし、この人は真面目に務めたのだ。きっと苦労があったに違いない。それがようやく終わったのだ。「はてて」は、その思いを表している。なるほど、これなら一刻も早く京に帰りたいと思うだろう。この日時に門出する理由がわかる。正月は京で迎えたいのだ。
「ふねにのるべきところへわたる」からは、船旅であることがわかる。船旅であることは既に『土佐日記』という題名から予想されることではあるけれど、はっきりさせたかったのだ。「わたる」は移動する。既に船旅を意識しているため、この語を使ったのだ。思いはもう旅なのだ。
コメント
「やれやれ、やっと都へ帰れる」、という気持ちなのですね。ただ五年と言うのでなく、「よとせいつとせ」と言葉を重ねる事で、その地で辛抱強く送ってきたであろう日々が思われます。いつの日か帰る日をどれ程に夢見ていたのか。そう思うと、年末のしかも夜になってからの出発も納得できます。ゆらり揺られる船の旅、波乱もあるのか、期待が高まります。
ここの記述は、任地に赴かないで収益だけを得ていた者たちへの皮肉・批判になっています。当時は藤原氏の世になっていました。紀氏である貫之は政治的には不遇でした。
だから、藤原一族のようには行きません。おっしゃるように、「あるひと(=貫之)」四年も五年も辛抱強く勤めてきたのです。それが、「あがたのよとせいつとせはてゝ」という表現になりました。
そういうことだったのですね。
よくわかりました。
自分は頑張ったんだという気持ち、一刻も早く京に帰りたいから、
こんな時期時間なんだなと、なるほどと思いました。
事実を述べることが思いを述べることにもなっています。
これは、何にでも当てはまります。事実文と意見文の区別はナンセンスです。
人は思いがあるから、その事実とその表現を選びます。