嗚呼、何等の特操なき心ぞ

二三日の間は大臣をも、たびの疲れやおはさんとて敢《あへ》て訪《とぶ》らはず、家にのみ籠り居《をり》しが、或る日の夕暮使して招かれぬ。往きて見れば待遇殊にめでたく、魯西亜行の労を問ひ慰めて後、われと共に東にかへる心なきか、君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ、滞留の余りに久しければ、様々の係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落居《おちゐ》たりと宣ふ。其気色辞《いな》むべくもあらず。あなやと思ひしが、流石に相沢の言《こと》を偽なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋《すが》らずば、本国をも失ひ、名誉を挽《ひ》きかへさん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧洲大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝《つ》いて起れり。嗚呼、何等の特操なき心ぞ、「承《うけたま》はり侍《はべ》り」と応《こた》へたるは。

「二三日後、大臣に招かれる。待遇が素晴らしく、ロシア行きの功労をねぎらわれる。その後で次のように言われる。「自分と一緒に日本に帰る気持ちはないか。君の学問がどれほどのものか私にはよくわからない。しかし、語学だけで世の用には十分だろう。この地の滞在があまりに長いので、様々な繋がりがあるだろうと相沢に聞いたところ、そういう繋がりは無い聞いて安心した。」と。その顔色に否定することも出来なかった。この天方伯の言葉についてどう思う?」
「さすがに人の上に立つ人の言葉は、無駄が無いね。必要なことはすべて述べている。ポイントは、学問と係累に触れていることだ。学問が豊太郎を操る際の鍵であることをちゃんと心得ている。それについては口をださないと言う。一方で、語学だけで余計なことは言うなと釘も刺している。係累については、失職の原因だから精算が済んでいることを確認している。」
「それを言う天方伯の顔つきは、否定することを許さなかった。ああそれは違いますと思ったけれど、さすがに相沢の言葉を嘘だとも言うのが難しく、もしこの手に縋らなかったら本国も失い、名誉を取り戻す道も立ち、身はこの果てしないヨーロッパの大都会の人の海に葬られるかだろうかと思う気持ちが、衝動的に起こった。そこで、豊太郎は、「ああ何という、堅い貞操の無い心だ。」と思いながらも承諾してしまう。これについてはどう?」
「天方伯は、威圧的な態度を取って、絶対に言うことを聞かせようとしている。部下を使い慣れているね。」
「そにしても、豊太郎の答えはひどい。エリスを裏切っている。結局自分が可愛いんだ。」
「許せないね。後で「嗚呼、何等の特操なき心ぞ」なんて思っても遅い。そう思うくらいなら、「特操」を持てよ!」
「「流石に相沢の言を偽なりともいひ難きに」もひどい。別に相沢が嘘を言った訳じゃない。豊太郎が嘘を言ったのだ。それを正直に言えば、相沢は罪を問われない。豊太郎は、自分が嘘つきだと思われたくないんだ。自分が見えていない。」
「確かに人種的偏見に満ちたヨーロッパで生きていくのは辛い。名誉を回復するのは、母の思いに沿うことだし、太田家の家長としての責任でもある。同情すべき点はある。だからと言って、エリスを裏切ることは許されることじゃない。エリスに対しての責任はどうするの?」
豊太郎は、どうしてここまで卑屈な態度を取るのだろう。どうしてここまで天方伯の言いなりになるのだろう。「すみません、相沢に嘘を言っていました。私には妊娠しているドイツ人の内妻がいます。これを棄てる訳にはいきません。大臣には心からお仕えします。どうか、妻として一緒に日本に連れて行かせてください。」となぜ言えなかったのだろう。これこそ、人として正しい態度ではないか。それを認めないとしたら、天方伯など仕える価値がないではないか。豊太郎は、見栄の張りすぎだ。虚栄心が強すぎる。
すると、虚栄心がこの悲劇を作っていることになる。それなら真の悲劇とは言えない。なぜなら、虚栄心は棄てようと思えば棄てられるじゃらだ。それをしないのは、豊太郎の意志だ。自分の意志で「特操」のない男になって、嘆きたいのだ。それが目的なのだ。ならば、悲劇を作り出したのは豊太郎の意志による。悲劇は、回避可能なのだ。その意味で、『舞姫』は真の悲劇になり得ていない。虚栄心が作り出した悲劇だ。その点では、『山月記』に似ている。

コメント

  1. すいわ より:

    ロシア行きの時と何等変わらない豊太郎の態度。旅の疲れがおありだろうと敢えて訪ねなかったと言っているけれど、相沢との約束の事が大臣に知れているのではないかと怖くて引き篭もっていただけの事。案の定、大臣はお見通しで豊太郎が逃れようのないように言葉を選んで最大限、彼の能力を利用できるように大人のやり方で事を進めてくる。可哀想な自分をアピールする事で自分の不始末を帳消しにしようとするのはあまりに身勝手ですね。明らかに自分よりも弱い立場のエリスの事を考える余地も持てない豊太郎、積極的に彼女に関わったのは彼自身なのに。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎には、選択肢が四つありました。天方伯を取るか、エリスを取るか、両方を取るか、両方とも取らないかの四つです。最後は問題外ですから除きます。
      すると、豊太郎には前の二つしか頭にないことがわかります。なぜでしょう?天方伯とエリスは、ほぼ釣り合っていたはずです。もし、極端にどちらかに傾いていれば話は簡単です。どちらかを切り捨てればいい。それができないから苦しむのです。
      そこで、選択すべきは「両方取る」であるべきです。すいわさんは「可哀想な自分をアピールする事で自分の不始末を帳消しにしようとするのはあまりに身勝手」とおっしゃいますが、第一に、豊太郎はエリスとのことを「不始末」だとは思っていません。
      第二に、正直に言うことは「身勝手」でしょうか?ここは、見栄を張らないで、自分を曝け出し、つまり、うそを付かないで、天方伯と対等の立場で取引・交渉をすべきです。天方伯の希望を受け入れる代わりに条件を出すのです。それが大人の対応ではありませんか?
      では、豊太郎にはなぜそれができないのでしょう?理由は二つ。一つ目は、虚栄心が強いから。何より、人によく見てもらいたいのです。もう一つは、破滅したいから。自分の悲劇性に酔っているのです。本来悲劇では無いものを悲劇に仕立てようとしているのです。

  2. すいわ より:

    自分の行動のせいで起こっている事の結果を受け止めない、エリス一人に引き受けさせてエリスとの事を不始末と思えていない事が身勝手だと思いました。豊太郎もエリートにありがちな、人に責任を転嫁して逃げて無かった事にする、でも良心は痛むので自分を可哀想な人に仕立てて目眩しをするような。大人のやる事ではありません。まるで子供が失敗を隠す為に付け焼き刃の嘘を重ねるみたいで、大人として彼を見る事が出来ません。嘘で塗り固めてどんどん自分の像を歪にして(これが虚栄心ですね?)自分は嘘の鎧を纏っているけれど、エリスは丸裸で満身創痍。
    豊太郎が「破滅したい」とは思っても見ませんでした!そうすると物語に別の顔が見えてきます!再考します。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎の行動に対する評価はいかようにもできます。〈エリートにありがちな責任転嫁〉〈子ども並の付け焼き刃の嘘〉などなど。
      しかし、もう一歩踏み込んで、なぜそうした評価になるのかを考えてみるべきです。天方伯・相沢に従うこととエリスを大事にすることは、現実的に対立的ではあります。天方伯も相沢を豊太郎もそう考えています。
      しかし、エリスは統一可能だと思っています。豊太郎はなぜこの考えを受け入れてやらないのでしょうか。エリスを愛していない訳ではありません。何もかも棄ててエリスと生きていこうと思うこともあります。それは嘘ではありません。子どもにしてもどうでもいいとは思っていません。女を妊娠させた並の男くらいには責任を感じています。
      ならば、なぜ天方伯・相沢とエリスを統一しようとしないのか。(そのヒントは既にエリスが出しているではありませんか。)その理由こそが元凶です。それが虚栄心です。かっこつけたいからです。さらに、崩壊を望んでいるからです。

  3. すいわ より:

    エリスがどこぞの令嬢、それでも足りない、そもそも人種が違うから「太田家」には入れ難いのですよね。見た目にも。差別される豊太郎は自分が差別する側でもありますね。エリスは乗り越えているのに。

    • 山川 信一 より:

      それも世間体をはばかるという見栄・虚栄心の現れですね。つまらぬことにこだわり、自ら差別されているのに、自分も差別してしまう。差別を克服することができません。
      太田家に親戚が多いとしても当主は豊太郎ですから、自分次第でなんとでもなったはずです。
      東洋と西洋の対立、家族の問題、友情と恋愛、日本と欧州、母と妻・・・、対立することはいくらあろうと、すべて彼自身が解決すべき問題です。
      そこから逃げます。少しでも人からよく見られようとして。それが虚栄心です。自分ではわかっている無様な自分を曝け出すべきです。
      しかし、現実には豊太郎に限らず、自分が思い描いた自分を守るために、必死になって言い逃れようとするのが人のサガです。

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