産れん子は君に似て黒き瞳子をや持ちたらん

戸の外に出迎へしエリスが母に、馭丁を労《ねぎら》ひ玉へと銀貨をわたして、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥《いちべつ》して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白き「レエス」などを堆《うづたか》く積み上げたれば。
 エリスは打笑《うちゑ》みつゝこれを指《ゆびさ》して、「何とか見玉ふ、この心がまへを。」といひつゝ一つの木綿ぎれを取上ぐるを見れば襁褓《むつき》なりき。「わが心の楽しさを思ひ玉へ。産れん子は君に似て黒き瞳子《ひとみ》をや持ちたらん。この瞳子。嗚呼、夢にのみ見しは君が黒き瞳子なり。産れたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をばなのらせ玉はじ。」彼は頭を垂れたり。「穉《をさな》しと笑ひ玉はんが、寺に入らん日はいかに嬉しからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。

「ここで母が出てくるけど、影が薄いね。もうすっかり、エリスの言いなりになっているんだろう。母にチップを頼むけど、自分では対応したくないんだね。御者の態度が不愉快だったから。家に入ると、豊太郎は、部屋の中をちらっと見ただけで驚く。机の上には、白い木綿や白いレースが堆く積み上げてあったので。エリスはにっこりして、これを指さして、「どうご覧になりますか、此の心構えを。」と言いながら一つの木綿切れを取り上げるのを見ると、オムツだった。レースは産着だろうね。エリスは出産の準備を始めていたんだ。そして、こんなことを言う。「私の心の楽しさを想像してください。生まれてくる子はあなたに似て黒い瞳を持っているだろうか。この瞳。ああ、夢に見たのは、あなたの黒い瞳なのだわ。」ここからどんなことがわかる?」
「エリスには人種的な偏見が無いこと。御者とは対照的。御者の態度はこの伏線になっていたんだね。豊太郎への愛は、人種的な偏見を克服している。エリスはそれをアピールすることで、自分がどれほど豊太郎を愛しているかを訴えている。」
「エリスは更に続ける。「生まれたらその日にあなたの正しい心で、よもや他人の名前を名告らせなさらないでしょう。」そう言って、エリスは頭を垂れた。「幼いとお笑いになるでしょうが、洗礼を受けるために教会に行く日はどれほど嬉しいでしょう。」そう言って、見上げた目には涙がいっぱいだった。ここからわかることは?」
「エリスは棄てられるのではないかと脅えている。豊太郎を信じ切れていない。」
「だから、豊太郎の良心に訴えようとしている。」
豊太郎は、エリスが出産の準備をしていることを知って驚く。豊太郎は甘い陶酔から切実な現実を突きつけられたからだ。甘いなあ。一体豊太郎はエリスのことをどう思っているんだろう。夫として、父として生きていこうとは思わないのだろうか。
一方、エリスは必死だ。母として出産に備えることを褒めてもらおうとする。愛する豊太郎に似た子がほしいと言って、自分がいかに豊太郎を愛しているのかを訴える。あなたに似た子がほしいと言うのは、女性からの最大の愛情表現だからね。しかも、人種的な偏見を持っていないことも意味している。
ただ、豊太郎の気持ちが今一つつかめない。豊太郎の愛を疑いたくはない。自分は確かに愛されている。それはわかる。しかし、自分には理解できない何かがある。だから、不安でたまらない。そこで、あらゆる手段で惹き付けようとする。良心にも訴える。
気になるのは、豊太郎からどんな言葉を引き出せたかだ。豊太郎は何と答えたのだろう。その場だけの調子のいい言葉でお茶を濁したのだろうか。

コメント

  1. すいわ より:

    エリスの一途な気持ちが痛いほど伝わってきます。でも当の本人、豊太郎は事の進行について行けていない。エリスの不安は必要以上の饒舌さを見せています。なのに子供の洗礼以前に肝心な自分たちの結婚に関しては言えていない。そこを飛ばして進む事は出来ないでしょうに。お互いに本音を包み隠している間にどんどん溝は深まっていく。隣にいても一歩踏み出したら落ちて上がって来れない危うい状態になっていると気付いているのでしょうに。

    • 山川 信一 より:

      エリスは自分から結婚について口にしていませんね。直接結婚してくださいとは言いません。それは、恐らく豊太郎に言わせたいからでしょう。
      そうすることで、安心したいのでしょう。だから、肝心なところには触れないのではありませんか?女性心理とはそういうものではないでしょうか?
      豊太郎が実際にどう答えたかが書いていないところが思わせぶりです。のらりくらり誤魔化したのでしょうか?

      • すいわ より:

        そうですね、エリスは水を向けて、でも豊太郎からは色良い答えが返って来ない。返って来ない事が分かっていてそれでも豊太郎を信じる事を諦められない。帰って来てくれたのだから、とそれ以上を口にできない。豊太郎は「君の働きは大したものだね、私も今回のロシアでの仕事は難儀だったよ。少し疲れたので休ませてくれたまえ。」とか言って子供の事に直接触れないようにしていそうですね。他人がどんなにダメな奴と思ったところでエリスにとっては唯一無二の愛する人。豊太郎の愛は、、まだ顔も見えない子供に愛情は生まれないものなのでしょうか。

        • 山川 信一 より:

          一般に、父としての愛は、母としての愛以上に育っていくものです。母にせよ、父にせよ、本能的に愛を持つ訳でありません。
          夫婦が子育てをしながら、少しずつ母や父になっていきます。なるほど、エリスには母としての自覚が既にあります。しかし、それは豊太郎の愛を引き止めることと切り離せません。そこから生じたものでもあります。
          その点、豊太郎は逆でした。エリスとの将来に不安を持っていたのですから。この時点で、父としての愛を豊太郎に期待するのは無理です。しかも、豊太郎はお手本とすべき父の愛を知りません。
          更に、太田家を継ぐ者として、エリスとの子をイメージすることも難しいでしょう。

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