われをば見棄て玉はじ

 はゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢《うはじゆばん》も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。
「これにて見苦しとは誰《た》れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故《なにゆゑ》にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共《もろとも》に行かまほしきを。」少し容《かたち》をあらためて。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縦令《よしや》富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣《のたま》ふ如くならずとも。」

「エリスがかいがいしく世話をする。なぜかな?」
「これから大臣に会うかもしれないから、失礼があってはならない。それは自分たちの将来の生活に関わる可能性があるから。」
「「襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ」ってあるけれど、いつの間にかネクタイの結び方まで学んでいるよね。」
「エリスはすっかり奥さんだね。豊太郎の妻としての自覚がある。」
「豊太郎をよほど愛しているんだね。家でお母さんがお父さんのネクタイ結ぶとこなんて、見たことがないよ。」
「それに、大臣との面会に期待もあるんじゃない。」
「でも、豊太郎は、それをたとえるのに「母」の比喩を使っている。妻とは、見ていない。豊太郎の愛の基準は母なのだ。エリスは第二の母だったのかもしれない。」
「「ゲエロツク」は礼服だね。これをちゃんと取って置いたのは、再び世に出ることを考えていたからだね。豊太郎は、復帰を諦めていないことがわかる。」
「エリスは正装して立派に見える豊太郎に満足しているね。なのに、豊太郎が不機嫌な顔をしているのをいぶかしく思う。自分も一緒に行きたいとまで言う。ここからどんなことがわかる?」
「エリスは立派に見える豊太郎が誇らしくなり、その妻であることが嬉しくなる。体調が悪くなかったら、妻として同行したいと思っている。」
「その後で表情を変えるね。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」ってどんな気持ち?」
「「嫌!立派な服装をなさるのを見ると、私だけの豊太郎さんには見えないわ。」と言う。エリスは、豊太郎との身分の違いを感じて不安になったんだ。」
「だから、「たとえお金持ちになる日が来ても、私を見捨てないでしょう。私が妊娠していなくても。」と言うんだね。エリスがかわいそうになってきた。」
 すっかり妻になった気になっているエリス。一方、豊太郎は妻とは見ていない。豊太郎は一国の大臣に会えるほどの人だったことを改めて思い知る。それに対して自分は一介の踊り子に過ぎない。エリスは、二人の身分差を思い知る。名誉が回復して、職場に復帰したら、自分は棄てられるかもしれない。豊太郎は自分のことをどう思っているのだろうか。愛してくれているのだろうか。今一つわからない。不安が募るばかりだ。しかし、もし自分の子どもがあれば棄てることはないだろう。エリスは、豊太郎の自分への愛を信じ切れず、夫しての責任を促している。

コメント

  1. らん より:

    今日もまた悲しいお話ですね。
    お金持ちになっても見捨てないよねって言ったのですか。
    エリス、かわいそうに。。。

    豊太郎は不機嫌な顔をしてるし。
    それって、妻気取りのエリスに腹を立てているのですか。
    それとも、友達の策にはまる自分のこれからを必死に考えているからですか。

    何を考えているかわからない男ですね。
    豊太郎とのつながりはお腹の子供だけで、この子だけが頼り。
    豊太郎を引き留められるのはこの子だけです。
    ああ、エリスは不安しかないですね。

    豊太郎がすごいエリートだってわかるけど、困ってた時にエリスはいろいろ考えてくれて豊太郎を助けてくれたのに。
    豊太郎はいい気なものですね。

    • 山川 信一 より:

      豊太郎の不機嫌は、思ってもみなかった事態に戸惑っているからです。素直に喜ぶべきか疑心暗鬼になっているからです。
      しかし、エリス二はそれがわかりませんから、その理由が自分に有るのではないかと思ってるのかもしれません。
      立派に見える豊太郎を誇らしく思いつつも不安を感じているエリスが哀れですね。

  2. すいわ より:

    豊太郎はエリスが自分に対して母親以上の愛情をきめ細やかに注いでくれている事を自覚してはいるのですよね。ただ、それは夫婦として対等なものではなく、あくまで受け取る一方のもの。自分がそれを受け取れるのは当たり前で、それに応える必要などない。無理を押して身支度を調えてくれるエリスに言葉掛けをするでもなく、これから訪ねていく先の事で頭が一杯。何処までも自分本位ですね。
    立派な姿の豊太郎を誇らしく見つめ、高揚するエリスが悲しい。貴方素敵ね、というエリスに豊太郎が微笑み返してくれたなら、手を振ってドアから見送れたでしょうに。硬い表情の豊太郎を見て、その姿がこの場にいかに似つかわしくないか、気付いてしまう。全てを失った貴方を私は迎え入れた、立場が逆転して富や名声を手に入れた貴方は?このドアを出たらここへ二度と戻ってこないのではあるまいか?と不安にもなりますね。
    本当に哀れなのは、自分の成功を我が事のように喜び、自分の痛みに涙を流してくれる存在に愛を注ぐ事を知らない豊太郎なのかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      細やかにエリスの思いを捉えています。ただ、ここまで深くはわからいにしても、豊太郎にエリスの気持ちがまったくわからない訳ではありません。なのに、それに応えてやろうとはしないのです。
      それは、豊太郎は幸せが那辺にあるのか、わかっていないからです。既に身に付けてしまった物の見方考え方価値観を変えることができないからです。だから、自然な人情のまま生きていくこともできません。

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