明治廿一年の冬は来にけり

 明治廿一年の冬は来にけり。表街《おもてまち》の人道にてこそ沙《すな》をも蒔《ま》け、鍤《すき》をも揮へ、クロステル街のあたりは凸凹《とつあふ》坎坷《かんか》の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍《こゞ》えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室《へや》を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿《うが》つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶《たす》けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻《つはり》といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束《おぼつか》なきは我身の行末なるに、若し真《まこと》なりせばいかにせまし。

「「明治廿一年の冬は来にけり。」とある。ここからどんなことがわかる?」
「この年が特別な年だってこと。遂にこの年が来てしまったという感じ。この年に何かがあったんだね。それも冬という季節からよくないことがあったと思える。ついに二人に冬の時代がやって来たんだ。」
「具体的な年号が初めて出て来たね。なぜ出したのだろう?」
「リアリティを出すため。」
「「明治」という年号から、この話はドイツが舞台であるけれど、日本の話であることを読者に意識させるため。」
「「凸凹坎坷」は、道がでこぼこしていること。表通りは砂を撒いているけれど、クロステル街のあたりは、道はでこぼこして、道は凍っている。朝は雀が凍え死ぬほどの寒さだ。部屋を暖め、竈に火を焚きつけても、壁の石を通して、衣の綿を突き抜ける北ヨーロッパの寒さはなかなか耐えがたい。日本の冬に比べたら厳しいだろうね。「冬はいかなるところにも住まる。」なんて言ってられない。これ、『徒然草』からの引用だからね。
 エリスは二三日前の夜、舞台で卒倒したということで、人に助けられて帰ってきたが、それから気持ちが悪いと言って休み、ものを食べるごとに吐くのを、つわりというものだろうと気が付いたのは母であった。ああそうでなくても不安なのは、この先の身の上なのに、もし本当だったらどうしようか。
 寒い冬がやって来た。その中で、エリスが妊娠する。豊太郎はかなり動揺している。これをどう思う?」
「エリスは、妊娠してもいいと思っていたんだ。むしろそれを望んでいた。豊太郎を愛していたからね。だけど、豊太郎はそうじゃない。気持ちが擦れ違っているね。」
 エリスは、なぜ妊娠したのだろう。なるほど、愛する人の子どもをほしいと思う。しかし、子どもができれば豊太郎が自分と結婚してくれるはずだという計算もあったのではないか。豊太郎と離れないためにも、子どもがほしいのだ。と言うのは、エリスには、豊太郎が今の暮らしに心から満足していないことに気付き始めているからだ。二人の心の隙間を埋めるには、子どもが必要だと考えたのだ。エリスは、母から自立したけれど、今度は自分自身が母となって、母としての利己心を持ち始めている。
 豊太郎は、この地でエリスと添い遂げようとは思っていない。自分には他にやるべきことがあると思っている。なのに、事態が思いがけない方向に進行していく。そのため大きく動揺している。「さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに」とあるように、エリスと「我身の行末」とは切り離している。豊太郎の人生はエリスとは別にあるのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    エリスの本気が豊太郎にはまるで伝わっていないのですね。豊太郎とずっと一緒にいる為に子供をというのが計算だというのなら、それは相当の覚悟だと思うのです。エリスは看板女優な訳で、妊娠すれば職を失い、とりもなおさず生活の術を無くすことになる。豊太郎に生活の全てはのしかかる。豊太郎を苦しめたい訳ではない、でも、彼を確実に繋ぎ止めるだけの保証が欲しい、、そういう不安を抱かせる程に豊太郎との関係に自信を持ち切れていなかったのでしょう。
    エリスの妊娠が計算なら豊太郎の同棲は打算、でしょうか。エリスの気持ちを利用して取り敢えず生活していける場を手に入れた。自らの行末は心配しても、エリスの身を案ずる言葉が一言も出てこない。豊太郎は普通に結婚して家庭を持っていてもおかしくない年齢になっていて、でも「悪阻といふものならん」?深い仲になっていたにも関わらず、まるで予期せぬ事に遭遇したかの態度。いえ、豊太郎なら「予期せぬ事」なのでしょう、彼はコドモ大人でした。彼の中に正義はあっても彼に責任は(負え)ナイ。自分ひとりの人生を生きるのすら精一杯で彼にとってエリスとの暮らしはママゴト遊びのように心愉しく、でも実のないものなのでしょう。寒々とした冬景色が悲劇を予感させます。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんは、豊太郎に腹を立てていらっしゃいますね。おっしゃるとおりです。豊太郎はまさに子ども大人です。
      エリスの家に転がり込んでそれで当然だと思っています。エリスが妊娠してもいいような行為はしながら、妊娠すれば焦る。
      しかし、これがエリート男性の正体です。エリートほど自己中心的に物事を捉えがちです。鷗外のエリート批判でしょう。エリスに計算が働いても、仕方ありません。それだけの男なんですから。
      ただ、豊太郎を責める資格がある男がどれくらいいるでしょうか?男とは、女に対しては多かれ少なかれ無責任で自己中心的です。
      もし、男が真実の愛に目覚めるとしたら、まず女が真実の愛で目覚めさせる以外にありません。愛については女が上ですから。これは真に賢い女にしかできません。
      しかし、幼いエリスにそれができるでしょうか?

  2. らん より:

    「我身の行末」というところがカチンときました。
    エリスと一緒の人生ではないのですね。
    この男は自分のことだけなんだなあと。
    エリートの世間知らずはつくづく嫌だなあと思いました。

    エリスは2人の心の隙間を埋めるために子供が欲しかったのでしょう。
    豊太郎の心が自分とずれていることに気がついて、子供がいればこっちを向いてくれると思っていたのかなあと思いました。

    • 山川 信一 より:

      エリートとかインテリとか称される人たちがいます。往々にして彼らの欠点は、自己中心的で人を愛することができないことにあります。
      自尊心が強すぎるのです。鷗外はそのあたりを批判しているのでしょう。
      霊長類の中で唯一オスが子育てに参加するのは、ヒトだけです。男女は子育てによって結びつきます。子育てによってオスは初めて人間になると言ってもいいでしょう。
      だから、エリスの思いはヒトとして間違っていません。本能的に正しい思いです。

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