民間学の流布

 我学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにといふに、凡《およ》そ民間学の流布《るふ》したることは、欧洲諸国の間にて独逸に若《し》くはなからん。幾百種の新聞雑誌に散見する議論には頗《すこぶ》る高尚なるもの多きを、余は通信員となりし日より、曾《かつ》て大学に繁く通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みては又読み、写しては又写す程に、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自《おのづか》ら綜括的になりて、同郷の留学生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には独逸新聞の社説をだに善くはえ読まぬがあるに。

「再び「我学問は荒みぬ。」と言っている。どういうことがわかる?」
「よほどそれが辛いんだね。自己のアイデンティティーに関わるからね。」
「それと共に、次で言うことの前置きになっているんだ。民間学というのは、ジャーナリズムのことね。それがヨーロッパの中で一番ドイツが盛んなんだって。何百の新聞雑誌のあちらこちらに載っている議論にはたいそう高尚なものも多いのを、豊太郎は通信員になってから、以前大学に足繁く通った時に養った物事の本質を見抜く眼孔で、読んでは読み写しては写す内に、今まで独立していた知識は、自然に総括的になり、同郷の留学生などの大部分は、夢にも知らない境地になった。彼らの仲間にはドイツ語の新聞の社説でさえよくは読むことができない者がいるのにと言う。ここからどんなことがわかる?」
「豊太郎は、学問が疎かになってしまったことを嘆く反面、新たにジャーナリズムを身に付けたことをよかったと思っている。それは、バラバラだった知識が結びついて、より広いの枠組みの中で捉えられるようになったから。」
「一方で、それができたのは大学で学問を学んだからだとも言っている。結局、どちらも大事なんだね。基礎的な学問で養った批判力があるからこそ、現実の問題の本質を見極め、それを解決したりできるんだ。」
「そうしてみると、学問はできないけれど、その反面得たこともあると言いたいんだね。取りようによっては、負け惜しみにも聞こえるけどね。あるいは、無理矢理自分を納得させているともとれる。」
「一方、それは批判でもあるね。同郷の留学生の多くは、ドイツ語の社説さえまともに読めないと言っている。なぜ読めないのかな?」
「彼らには、日本での出世以外に関心が無いからだよ。余計と思われることはしない。だから、視野も考えも狭いんだ。これは留学生批判だね。」
「これはそのまま、現代人批判になるね。大抵の人は、自分の利害に関わる関心事以外の行動はしないからね。しかも、その関心の範囲がすごく狭い。高校生はどれくらい新聞を読んでいるのかな?読書にしたって、読むのはいい成績を取るためだけだよね。それ以外の本に興味を示さないからね。」
 ここは、基礎学問の大切さ、その応用が説かれている。また、ジャーナリズムの実体や有用性も。更に、自分の利害以外の行動はしようとしない生き方を批判している。当時の留学生への批判は、そのまま今の高校生や大学生にも当てはまる。SNSを含めて、個人的な人間関係が関心のすべての人が多いからね。生きる姿勢は、この時代の留学生とほとんど変わっていない。

コメント

  1. すいわ より:

    インプットは出来なくなった、でも学舎から出て世の中を見つめる事で、今まで学んだそれぞれの知識の点が繋がって学問の俯瞰図が見えてきたのですね。自分一人の中で完結するのでなく、様々なテーマが議論される事で深く掘り下げられ、より層の厚い思考へと辿り着く。これは「夢にも知らぬ境地」だった事でしょう。尚のこと勉強したくなってしまいますね。
    それにしても、物語を読んでいるはずが、今回は学びについての評論を読んでいるようで、森さん、相変わらずです、いえ、学びの門は広く開いたのにもっと勉強が功利的に扱われるようになっているかもしれません、面目ない、という気持ちになりました。

    • 山川 信一 より:

      鷗外は豊太郎の批判を通して、当時の留学生を批判しているのです。
      リベラルアーツとその応用の重要性を説いているのでしょう。また、ジャーナリズムを正当に評価すべきだとも。
      現代が鷗外の問題提起、批判にどれだけ応えられているのか、甚だ心もとなく感じます。

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