彼等親子の家に寄寓

 社の報酬はいふに足らぬほどなれど、棲家《すみか》をもうつし、午餐《ひるげ》に往く食店《たべものみせ》をもかへたらんには、微《かすか》なる暮しは立つべし。兎角《とかう》思案する程に、心の誠を顕《あら》はして、助の綱をわれに投げ掛けしはエリスなりき。かれはいかに母を説き動かしけん、余は彼等親子の家に寄寓することゝなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、有るか無きかの収入を合せて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。

「新聞社の給料は、すごく少なかったんだ。今まで公費からいかに多くの学資を得ていたかがわかるね。でも、それって税金だよね。鷗外は、官民の差を批判しているのかも?まあ、それはともかく、新聞社からの収入でも、下宿を変えて、食費を抑えれば何とかやって行けそうだと見通しを立てる。そんな風にあれこれ考えているうちに、エリスは、真心を顕して、豊太郎に助け船を出してくれた。エリスがどうやって母親を説得したのかはわからないけれど、豊太郎はエリス親子と一緒に暮らすことになった。エリスと豊太郎はいつからか有るか無いかくらい少ない収入を合わせて、辛い中にも楽しい月日を送った。つまり、二人はエリスの家で同棲することになったんだ。それにしても、よく母親は承知したよね。何て説得したんだろう?」
「一緒に住んだ方がお金を節約できるから、私たちにとってもその方が都合がいいんじゃないって感じ?あの母親には、金の話は説得力があるからね。エリスは母親の制御の仕方がよくわかってるよね。」
「それと、母親がそれを認めたのは、豊太郎が東洋人だし、エリスが幸せいっぱいにならないからじゃない?そこがいいんだよ。この母にとって、娘は嫉妬の対象だからね。」
 エリスと母親の関係がいよいよ明らかになる。エリスは決して母親の言いなりにはならない。むしろ、母親をリードしていく。母親から精神的に自立し切れていない豊太郎とは対照的だ。また、どうやって生きていけばいいかについてもよく知っている。この点でも、世間知らずの豊太郎とは対照的だ。今や、豊太郎はエリスの言うがままになっている。

コメント

  1. すいわ より:

    肩書きを失った豊太郎、いかにこれまでが「特別待遇」であったかを知った訳ですが、その代わりにエリスという「母」を手に入れたのですね。貧しくとも雨露は凌げて贅沢ではなくとも食うにも困らず、「母」の差し出す新しい居場所に豊太郎坊やは満足している様子です。それと比べるとエリスの逞しさ、強欲な母には「働き手が増えるし、女世帯より男手があった方が用心になるし何かと助かる」くらいの事を言って丸め込んだのでしょう。主導権はすっかりエリスに移りました。豊太郎の帰りを待つ母のいない日本に、もう、未練は無いのでしょうか?母の遺言をどう受け止めて生きていくのでしょう。貧しくも愛ある生活を選び取れるのなら幸せになれますね。優秀な豊太郎自身の力で成功を掴める可能性だってあるはずですから。自立が出来るのなら、ですが。

    • 山川 信一 より:

      エリスは、豊太郎の〈新しい母〉になりましたね。豊太郎にとって、日常的にも精神的にも自分を支えてくれるのが母なのですから。
      母がいてくれるから安心して日々努めることができました。そして、母の願いどおり、よい学校に入り、よい職業に就くことができました。
      このタイプの男はいくらでもいます。こういう男にとって、結婚とは〈新しい母〉を得るためのものなのです。結婚生活が上手く行くはずがありません。鷗外はそれを批判的に描いたのでしょう。
      しかも、豊太郎の場合は、エリスが庇護の対象から一気に〈新しい母〉になりました。彼はこの急展開をよく矛盾無く受け止められました。そんなものなのでしょうか?
      とは言え、亡くなった母の影響は無くなりません。これからは、豊太郎の中で実母と〈新しい母〉の闘いが始まります。

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