師弟の交りを生じたる

 余とエリスとの交際は、この時までは余所目《よそめ》に見るより清白なりき。彼は父の貧きがために、充分なる教育を受けず、十五の時舞の師のつのりに応じて、この恥づかしき業《わざ》を教へられ、「クルズス」果てゝ後、「ヰクトリア」座に出でゝ、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷といひし如く、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にて繋がれ、昼の温習、夜の舞台と緊《きび》しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をも纏へ、場外にてはひとり身の衣食も足らず勝なれば、親腹からを養ふものはその辛苦奈何《いかに》ぞや。されば彼等の仲間にて、賤《いや》しき限りなる業に堕《お》ちぬは稀《まれ》なりとぞいふなる。エリスがこれを逭《のが》れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とに依りてなり。彼は幼き時より物読むことをば流石《さすが》に好みしかど、手に入るは卑しき「コルポルタアジユ」と唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相識《あひし》る頃より、余が借しつる書を読みならひて、漸く趣味をも知り、言葉の訛《なまり》をも正し、いくほどもなく余に寄するふみにも誤字《あやまりじ》少なくなりぬ。かゝれば余等二人の間には先づ師弟の交りを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事に関りしを包み隠しぬれど、彼は余に向ひて母にはこれを秘め玉へと云ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎《うと》んぜんを恐れてなり。

「豊太郎とエリスとの交際は、傍から見るよりも清らかだった。エリスは、父が貧しいために十分な教育を受けていない。十五歳の時の踊りの師匠の募集に応じて、この恥ずかしい業を教えられる。ここからわかることはある?」
「エリスは、美貌の持ち主だったんだよ。だからそれを生かそうとしたんだ。父が反対しても、母は賛成したんだろう。」
「踊りを「この恥づかしき業」と言っていることからどんなことがわかる?」
「豊太郎の踊り子に対する評価が低く、この職業を軽蔑していることがわかる。ここに豊太郎の価値観が表れている。」
「「クルズス」はダンスの講習。今では、「ヰクトリア」座のナンバー2になっている。エリスには踊り子としての才能があったのね。容姿が美しいだけじゃなかったんだ。でも、詩人のハックレンデルが舞姫は現代の奴隷だと言うように、給料は少ないし、昼はレッスン、夜は舞台とこき使われ、舞台に立つ時は化粧をし、美しい衣裳も纏うけれど、日常生活では自分の衣食にも事欠くことが多く、親兄弟を養う者はその辛さが計り知れないほどだった。そのため、彼女たちの中には、「賤しき限りなる業に堕ちぬは稀なり」とあるけど、これってどういうこと?」
「踊り子のうち多くの者が貧しさから売春をしていたってことだね。それが一般だったから、エリスの母も娘に今これを無理強いしているんだね。」
「エリスがこれを逃れたのは、しっかりした父親守られていたのと、大人しい性質のためだった。エリスは幼い時から読書を好んでいたけれど、手に入るのは「コルポルタアジユ」という貸本屋の小説だけだった。それが、豊太郎と知り合ってから豊太郎が貸した本を読み習って、次第に好みも洗練され、言葉の訛りも正しくなり、程なく豊太郎への手紙にも誤字が少なくなった。二人は手紙のやり取りもしていたんだね。これじゃ親しくなるわ。こういうことなので、豊太郎とエリスの間にはまず師弟の交わりが生じた。ここから何か思うことはない?」
「ミュージカルの『マイ・フェア・レディ』みたいだね。師弟が恋愛関係になっていくところがさ。それにしても、日本人がドイツ人に、正しいドイツ語を教えるのって不思議だね。」
「豊太郎が習ったのは、国語としてのドイツ語だったんだ。エリスが話していたのは、下町言葉。言わば方言なんだ。だから、豊太郎は、国語としてのドイツ語を教えたんだ。」
「それにしても、なぜ豊太郎はエリスに正しい言葉を教えたの?」
「エリスを貧しさから救うためだよ。エリスは教養がないから、踊り子などしているんだと思っている。だから、教養を見つけてまともな仕事をしてほしいと思っているんだ。」
「自分がしてあげられることはそれくらいだと思ったんだ。豊太郎は真面目な人だね。」
「それが、豊太郎への尊敬につながるんだね。尊敬は恋愛の必須条件じゃないけど、少なくとも軽蔑しているよりも恋愛が生まれやすい。だから、うちみたいな女子校には、先生に恋したり結婚したりする生徒がいるんだよね。」
「豊太郎が突然免官になったことを聞き、エリスは青ざめた。豊太郎はさすがにエリスのことが理由になっていることをエリスに隠したけれど、エリスは母にこのことを言わないようにと言った。これは、豊太郎が留学資金を失ったことを母が知って、豊太郎を避ける事を恐れたからだって。このことからどんなことがわかる?」
「母親は豊太郎に金があるから、娘との交際に目を瞑っていたんだ。「金の切れ目は縁の切れ目」だからね。でも、エリスにとって豊太郎は、もはや単なる金蔓ではなくなっていた。エリスにとって豊太郎は掛け替えのない特別な存在になっていたんだ。」
 エリスの中に豊太郎への愛が生まれていた。ヒギンズ教授と花売り娘イライザみたい。エリスにとって、豊太郎は理想の恋人になっていたんだろう。東洋人ではあるけれど、お金持ちで地位が高い、自分に見返りを求めない無償の愛を注いでくれる。教養があり人格者である。それは、本好きで貸本屋で借りた恋愛小説で夢見た恋愛そのものだったのだろう。「金の切れ目は縁の切れ目」とは無縁の心境だった。豊太郎と別れることなど考えられない。ショックを受けつつも、頭では既にどうやったら別れないで済むかを考え始めているに違いない。

コメント

  1. すいわ より:

    一時凌ぎの援助はしたものの、あの母の元にいたら、エリスは春をひさぐ身になりかねない。自らの判断で関わった以上、父亡き後、母が自分にそうしたように、教育を授ける事で生計を立てて行けるようにと考えたのですね。エリスにしてみたら、父以外でここまで誠実に自分と向き合う男性に会ったことが無かったのでしょう。エリスが好意を寄せるようになる気持ち、わかります。エリスが学ぶ姿を喜ぶ豊太郎、エリスもそれに応えようとする、、?自我に目覚める前の自分を嫌った豊太郎、結局自分もエリスを作ろうとしている?
    そして愛に目覚めたエリスもまた、母の意図に背こうとしている。交際を何とか続けようとするけれど、エリスの愛はまだ、求め、与えられる一方的なものですね。

    • 山川 信一 より:

      エリスは既に母に背いていました。ここで注目すべきことは、エリスが母を欺いたことです。母よりも豊太郎を取ったことです。
      エリスは自分の意志で母を裏切ります。母から自立していきます。母が亡くなっても母から自立できないと豊太郎と対照的です。
      エリスは、絶えず母を意識していたのでしょう。母と闘っていたのでしょう。だから、免官を聞いて直ぐに母のことを考えたのです。
      自立とは、少なくともエリスにとっては、母との闘いに勝つことでした。豊太郎との恋はそのための手段でもあったのです。

  2. らん より:

    エリスが貧しい暮らしを送っていたことがよくわかりました。

    豊太郎は誠実な人ですね。
    エリスに教養をつけてあげてエリスのこれからの生きていく力に
    してあげようとしてくれています。
    しかし、それが免官につながってしまいました。
    エリスは心が痛いですね。
    自分のせいでそうなってしまったし、お金がないことをお母さんに知られると豊太郎と引き離されるし。
    いろいろ考えていると思いました。

    母と子のつながりについて、いろいろ考えてしまいます。
    マザコン豊太郎。
    お母さんに売春させられそうなエリス。
    母と子はつながっているけれど、自分の人生は自分のものですよね。

    • 山川 信一 より:

      「しかし、それが免官につながってしまいました。エリスは心が痛いですね。」とありますが、少し違います。豊太郎は免官の理由をエリスに伏せいてます。
      だから、エリスは自分のせいだとは思っていません。言わなかったのは、エリスへの思いやりと言うよりは、エリスを一人前とは思っていなかったからです。
      対等の立場に立とうとはしないのです。その意味で豊太郎はエリスを一人前の女性として愛していません。

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