名はいつも一級の首にしるされたり

 余は幼き比《ころ》より厳しき庭の訓《をしへ》を受けし甲斐《かひ》に、父をば早く喪《うしな》ひつれど、学問の荒《すさ》み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌《よびくわう》に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎《とよたらう》といふ名はいつも一級の首《はじめ》にしるされたりしに、一人子《ひとりご》の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某《なにがし》省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊《こと》なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰《こ》えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々《はる/″\》と家を離れてベルリンの都に来ぬ。

「まず大体の意味を言うね。「余」は幼い頃から厳しい家庭教育を受けたんだ。その甲斐があって、父親を幼い頃に失っても、学問を怠ることはなかった。廃藩置県前の藩の時代の学館にあったときも、東京に出て予備校に通ったときも、大学の法学部に入ったときも、太田豊太郎という名前はいつもクラスで一番に記されていた。このことは、一人っ子である私を頼りとして生きる母の心を慰めた。
 今あたしは、意味を幾つかの文に分けて言ったけど、原文ではここまでが一文で書かれている。作者は敢えてこういう文体で書いているんだ。優雅な印象を狙ったのかな。ここからわかることは、主人公の名前が太田豊太郎であること、母子家庭であること、家庭教育が厳しかったこと、つまり、母が教育ママだったこと、飛びっきりの秀才であったことだね。
 十九歳で大学を卒業して(当時は飛び級があったんだろうね)、大学創設以来の名誉だと人にも言われ、某省に勤務して、故郷にいた母を東京に呼び寄せた。トントン拍子に出世して、お母さんはさぞ喜んだろう。そして、楽しい生活を送ること三年。上司の信任も格別だったので、洋行して官庁の事務のあり方を学んでこいとの命令を受ける。出世するのも、家を興すのも今がチャンスだと思う心が沸き起こって、五十歳を超えた母と別れるのもそこまで哀しいと思わず、遙々家を離れてベルリンまで来た。
 絵に描いたような秀才でエリートだったんだ。母親孝行で、出世街道まっしぐらという感じ。お母さんもこんな素晴らしい息子を一人で育て上げて満足だったろうね。母からすれば理想の息子だよね。
 で、太田豊太郎」という名前はどこから来ていると思う?」
「これは、鷗外の本名の森林太郎が元になっているね。」
「じゃあ、なぜそうしたの?」
「自分がモデルで有ることを知らせるため。」
 鷗外は、主人公の名前から自分がモデルであることを知らせている。なぜなんだろう?真実味を持たせるためかな?他には・・・?

コメント

  1. すいわ より:

    美奈子さんは優雅な印象を狙ったのかと言っているけれど、一文が長いのにこれだけ整理されてこちらに不自然さを感じさせる事なく、きっちり情報を伝え切る文を書くのは一通りのことではないですよね。この一文を見ただけでも優秀な人という印象を持たされます。
    片親の謗りを受けないように、母親はそれは厳しく教育したのでしょう。母親の「期待」以上に立派に育った息子、年取った母を残す事にさほど未練もなくむしろ母の願いを叶えつつ、束縛から逃れて遥々と、晴々とベルリンへやって来たのでしょう。
    単に名を似せる事で人物に真実味を持たせるだけでなく、日記の体で書かれることで、その内容も私小説的に捉えられて、鴎外の「告白」を聞くようで、耳を傾けずにいられない。物語から目を離せなくなります。

    • 山川 信一 より:

      鷗外は、優雅な和文の文体をどれだけ理知的に使えるかを試みているようです。そして、見事に成功しています。曖昧なところが少しもありません。
      豊太郎はこの時代には珍しく一人っ子でした。したがって、母親の影響力は最大限に発揮されたことでしょう。ただ、この時点で豊太郎は母親を束縛と捉えていたかと言えば、そうは思えません。それに気付くのはまだ先です。まだ母の掌中にあります。
      また、「日記の体」で書かれているとも、「私小説的」に捉えられているとも思えません。一人称の独白ではありますが、感情に流されることなく、自分をできるだけ客観的に捉えようとしています。その評価を読者に委ねるように。

  2. らん より:

    すごいエリートなんですね。
    母親に手塩にかけて育てられて期待通りに育った自慢の息子なんだなあと感じました。
    母と息子の絆が深そうですね。
    私はこういうタイプは苦手だなあ。。。

    でも、なんで鴎外は自分がモデルであることを知らせてるのかな。
    非常に興味深いですね。知りたいです。

    • 山川 信一 より:

      苦手ですか。特に、母親から息子を奪う立場の女性はそうでしょうね。
      でも、普通は母親は敗れます。こんな言葉があります。
      A mother takes twenty years to make a man of her boy, and another woman makes a fool of him in twenty minutes.(母親は年かかって息子を一人前にする。すると、他の女が20分で彼をバカにしてしまう。)
      モデルが自分でわかるように書いた理由は、最後まで読んでからもう一度考えてみましょう。

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