誠先生の話

 『山月記』では、次の二つのことを学びました。
 一つは、李徴のような人物が存在することです。李徴の人物像は、現代のエリートと言われる人たちにも共通しているはずです。そして、誰しも李徴的な一面を持つことです。読むとは、自分を読むことです。作品を通して、自分の姿に光を当てることです。どんな自分が見えてきましたか?これまで気づかなかった自分に出会えたら、その読みは成功しました。
 もう一つは、言葉がいかようにも使えることです。言い換えれば、嘘がつけるのが言葉だということです。李徴は言葉を巧みに操って、偽りの自分を演じて見せました。それが実に空しい行為であることがわかれば、これも読みが成功したと言えます。情報リテラシーが言われていますが、この作品の読みはその力を養ったのではないでしょうか。

コメント

  1. すいわ より:

    「山月記」を当時高校の授業でやった時と、改めて今回授業を受けたのとで印象の違いに驚いています。コメント欄でも書いたのですが、高校生だった私は李徴の話を聞かされる袁傪側には立ったことがありませんでした。“名声”に執着し、自分の才に溺れ、その自信がむしろ枷になって破滅していく人のお話し、くらいに受け取っていたように思います。プライド高く、エリート志向だとこうなっていくだろう、と。今回読ませて頂いて、李徴の屈折したこじらせ振りに驚きを覚えました。優秀なのに気の毒な限りです。頭の良さの無駄遣い。李徴のような人、確かにいます。たぶん沢山。そして袁傪。物語の受け手として必要ですが、現実には有り得ない人物像だと思っていたのに、、最近は寧ろ袁傪のように当たり障りなく、ぶつかる事なく、本心を晒さず、大人ぶった“いい人風”が蔓延しているようで、それはそれで怖いようにも思いました。
    「言葉はいかようにも使える」、膨大な情報が必ずしも精査されないまま流れ込む現代、いかに冷静にそれらを判断するか、どう受け止めるかの能力を磨かないと、人それぞれの真実がある以上、一つの事実に辿り着くことが容易で無いことを学べました。
    次回の作品も楽しみです。

    • 山川 信一 より:

      素敵な感想ありがとうございました。なかなか、すいわさんのように、自らの問題として全身全霊で作品を受け止める方はいません。だからこそ、学ぶ甲斐があるというのに。
      私が予定して以上を学んでいただけて、教師冥利に尽きます。ありがとうございました。
      袁傪という人物に対する評価は説得力があります。確かにこういう人物が世の中には多いですね。袁傪に焦点を当てた読みも興味深いですね。
      次回は、森鷗外の『舞姫』です。準備する間、少しお待ちください。

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