卑怯な危惧と刻苦を厭う怠惰

人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己《おれ》の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有《も》っていた僅《わず》かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為《な》さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄《ろう》しながら、事実は、才能の不足を暴露《ばくろ》するかも知れないとの卑怯《ひきょう》な危惧《きぐ》と、刻苦を厭《いと》う怠惰とが己の凡《すべ》てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸《ようや》くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼《や》かれるような悔を感じる。

 春菜先輩の番だ。春菜先輩は李徴のことをどう思っているんだろう。あたしは自分のことに思えてしまう。
「李徴は「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。」と言うよね。何故こんなことを言うのかな?」
「自分を正当化したいから、物事を一般化するんだ。でもさ、「「~だという」って誰が言うの?」って、突っ込みたくなる。だって、あたしは自分が猛獣使いだなんて思ったこと無いもの。」
「「性情」というのは、生まれつきの性質だね。つまり、自分ではどうすることができないものだと言いたいんだ。生まれつきって、責任逃れに都合がいいよね。」
「李徴の場合、それが「尊大な羞恥心」という猛獣だった。だから、自分の手に負えなかったと言いたいんですね。」
「純子、わかってきたね。これが虎じゃなくて、狼ぐらいだったらまだましだったのにとでも言いたいんだろうね。」
「「これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。」と言ってるけど、要するに、悪いのは自分じゃなくて「これ(=性情)」なんだって言いたいんだね。」
「純子、「口先ばかりの警句を弄しながら」ってどういう意味?」
「「警句」は辞書によると、「着想が奇抜で、辛辣に真理を言い表した簡潔な表現の文句。」とあります。その言葉をもてあそぶことです。」
「そうだね。今の自分を正当化するために利用しているんだね。人生の長さは中途半端で、努力なんて意味が無いんだって。」
「「事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。」についてどう思う?」
「「卑怯な危惧」まではその通りだと思うけど、後半はどうかな?李徴が努力を惜しんだとは思えない。ものすごく頑張ってたと思う。最初の段落にある「この頃からその容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々として」は、その表れだよね。」
「じゃあ、何が言いたいわけ?」
「自分が詩人になれなかったのは才能がなかったわけじゃない、努力が足りなかったからなんだって言いたいんだよ。その方がプライドに傷がつかないからね。」
「確かに、あたしでもテストで悪い成績を取ったときに、こう思うことがある。自分はダメじゃない、ただ努力が足りなかったって。あたしも自分のプライドを守っているんだね。」
「「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。」をどう思う?」
「「俺よりも遥かに乏しい才能」って言うけど、「才能」って何?どうやったらわかるの?李徴は何で判断しているの?傲慢だよね。」
「「虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼かれるような悔を感じる。」と後悔しているけど、李徴は全然わかっていない。間違ったことがわかったって、なんの甲斐もない。」
 李徴は、虎になっても何も変わっていない。何も悟っていない。すべて自分に都合の良い理屈を並べているだけだ。だから、怖い。あたしもそういうところがあるんじゃないかな。すぐに「自分は悪くない。・・・が悪い。」って思ってしまうもの。あたしは李徴かもしれない。

コメント

  1. すいわ より:

    例えば袁傪の性情も虎で、でもその鷹揚さで虎を飼い慣らしていたのだとしたら、李徴は何と説明するのでしょう。聞いてみたい。
    「自分より遥かに乏しい才能の人が努力を重ねて詩人になった」、まるであいつは宝くじを買い続けて一等を当てた、みたいな言い方です。常に上から目線。そもそも詩人になるような人は見聞きした、心に映る全てを詩に表現せずにはいられないもの。李徴は数百の詩作をしたと言いましたが、李徴にとって詩は目的でなく手段でしかないのだから、ひたすら机に向かって書き作っていたのではないでしょうか。李徴の言うように「性質」はそう変わるものではないでしょう。でも、「性格」は周りから影響を受けて自ら作り上げて行けるものと思うのです。他者と信頼関係を結べない李徴はそうした自分を伸ばすきっかけを手放して来たのですね。自分の中に閉じこもって、自分に対する不信をどう飼い慣らすのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      その通りです。ただ問題は、李徴のことは(他人事だから)よくわかるけれど、自分自身が本質的に同じことをしていても気付かないことなのです。
      自分には甘く、人には厳しいのが我々の常ですから。李徴は自己を正当化するばかりです。彼に欠けているのは、自分の本性を曝け出す勇気です。
      これが無いから、どんどん自分の中に籠もるのです。しかし、現実にもこの勇気を持てない人の方が多いのではありませんか?
      アンナ・ハーレントは、この勇気の欠如がナチスの暴走を許し、ユダヤ人の大虐殺に繋がったと言っています。
      李徴の問題は、現代人の問題でもあります。

  2. らん より:

    なんだか、言い訳ばっかりで。
    「自分は悪くないんです、悪いのは心なんです」ってことなのでしょうか。
    心だって自分なのに。と思うのですが。
    はっきりいうと、李徴には詩人になる才能はないのですね。
    李徴が作る詩は李徴の心が伴ってないから。
    でも、その才能がないと認めることが一番怖いことだから、このようにぐだぐだ言ってるのかなあと思いました。

    • 山川 信一 より:

      その通りです。李徴に限らず、告白は自分の都合のいいように語るものです。
      この場合も、李徴にとって何がもっと大切なのかなって思って聞かなくてはなりません。
      李徴は袁傪に才能が無いって思われるのが一番嫌だったはずです。もちろん、自分でも認めたくなかったのです。
      だから、もっともな理由をこねくり回すのです。

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