詩の伝錄

 袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中《そうちゅう》の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。
 他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未《いま》だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇《ぺん》、固《もと》より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早《もはや》判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚《なお》記誦《きしょう》せるものが数十ある。これを我が為《ため》に伝録して戴《いただ》きたいのだ。何も、これに仍《よ》って一人前の詩人面《づら》をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯《しょうがい》それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

 春菜先輩の番だ。李徴は何を頼むのだろう?
「初めの段落はどんな役割を果たしているのかな?純子、答えて。」
「これは、演劇で言えば幕間の役割です。刺激的な場面が続くので、物語の進行に一息入れています。」
「いいね。他にある?」
「少しもったいをつけている気もする。すぐに話を進めないで、読者に期待を持たせている感じ。」
「それもあるね。ここで李徴の頼みがわかる。作った詩の伝録だ。自分が半生を犠牲にして作った詩をどうしても後代に残したいと言う。まだ暗記しているのが数十あるからと。では、ここからどんなことがわかるかな?」
「自分の人生を無意味なものにしたくないんだね。自分が生きていたという証を残したいんだ。そうだろうね。その気持ちはわかるよ。」
「詩を数百編も作ったんだ。そのうち数十は暗記している。やはり、李徴はすごい人だね。」
「貧乏になっても、狂ったように詩を作り続けたんだね。それがすべて無に帰すのはやはり忍びないね。李徴の頼みは納得が行く。」
「「一人前の詩人|面をしたいのではない。作の巧拙は知らず」とも言っているよね。李徴は謙虚だなあ。とにかく形にしたいんだね。そうじゃないと、李徴の人生が無意味になってしまうものね。」
「でも、その「一人前の詩人|面をしたいのではない。作の巧拙は知らず」なんだけど、ちょっと気になるな。袁傪がそう思うかもしれないって予想しているんだよね。これって、自分が相手の目にどう映るかを気にしているってことの表れだよね。批判される前に自分から言っておこうとする。これは自己防衛でもある。」
「李徴らしいね。自分の行動の基準がいつも他人の評価にあるんだ。それによって傷つくことを常に恐れている。」
「そう思うと、「自分は元来詩人として名を成す積りでいた。」も気になってくる。どうして「名を成す」と言うのだろう。「詩人になる」でもいいのではないか?李徴の目的は詩人になることよりも名を成すことの方にあったのではないか。そんな気がしてくるよね。」
「と言うことは、詩を残したいと言うのは、詩そのものを残したいからではなく、自分という存在を残したいからなんだ。うっかり誤解するところだった。」
 承認欲求というものがある。人から認めてもらいたい気持ちだ。この欲求は、性欲よりも食欲より物欲よりも強いと言われている。あたしたちで言えば、SNSの「いいね」の数を求める気持ちだ。、中には「いいね」のために毎日を送っている人さえいる。あたしはそこまでじゃないけど、高みから李徴を笑うことは出来ない。

コメント

  1. すいわ より:

    ここへ来て語り口調が漢文調というか、重々しくなっていますね。自分の詩の格調も高いと匂わせているようでもあります。世に出してはいないけれども数百篇にも及ぶ詩を詠んだのだ、と。圧倒される数ではありますが、暗に自慢しているように聞こえなくもない。これを袁傪だけでなく一行も聞いているとなると、「虎の残した詩」の宣伝効果もあったりして。李徴は自分の厳選した作品、作の巧拙は知らず、と言いながら人の目に触れさえすればきっと評価に値するはずと信じていればこそ世に名を残すチャンスと、お人好しの袁傪を利用しようとしているように思えます。

    • 山川 信一 より:

      「ここへ来て語り口調が漢文調というか、重々しくなっていますね。自分の詩の格調も高いと匂わせているようでもあります。」その通りですね。しっかり演出しています。
      「虎の残した詩」の宣伝効果とあります。しかし、これは微妙なところです。李徴は、本当に詩を残したかったのでしょうか?
      むしろ、虎になってまで詩を残そうとした自分を記憶に残してほしかったのではないでしょうか?その意味では「作の巧拙は知らず」はまさに本音なのです。
      そのあたり、これから確かめていきましょう。

      • らん より:

        先生、「一人前の詩人面《づら》をしたいのではない。作の巧拙は知らず」がよくわからないのですが。。。
        作の巧拙は知らずというところから、私はやっぱり李徴は謙虚だなあと思うのですが。
        純粋に詩を残したいという想いなのかなあと思うのですが、それは承認欲求になるのですか。なんかよくわからなくてすみません。

        • 山川 信一 より:

          李徴は虎になった今も詩を暗唱しています。そして、それを伝錄してほしいと言います。それを袁傪はどう見るでしょうか?
          李徴は袁傪の気持ちになって考えます。きっと次のように考えるんじゃないかって。詩の伝錄などと言えば、「自分の詩に自信があるからだな。虎になってまで自分のことを一人前の詩人だと思ってるんだな。哀れなやつだ。」と。
          そこで、そうじゃないって言うのです。「自分は自分の作品が優れていると思っているわけではないんだ。ただ自分がすべてを犠牲にして作った詩を残したいだけなんだ。」と。
          そう考えると、李徴は謙虚なのです。しかし、李徴の願いは、詩の伝錄そのものにはありません。それほど、詩に固執している自分を詩人として認めてもらうことにあります。それを承認欲求と言いました。

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