李徴の悲劇

 叢の中からは、暫《しばら》く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微《かす》かな声が時々|洩《も》れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。
 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐《なつ》かしげに久闊《きゅうかつ》を叙した。そして、何故《なぜ》叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人《とも》の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭《いふけんえん》の情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇《あ》うことを得て、愧赧《きたん》の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭《いと》わず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。

 春菜先輩に戻った。
「じゃあ、純子、前回の答えは?」
「ちょっと難しいです。李徴と対照的な性格にして、李徴の性情を際立たせるためですか?」
「それもあるね。じゃあ、みんなはどう思う?」
「袁傪は、読者の代表じゃないのかな?読者に代わって李徴の話を聞く役を果たしているのでは?温和だし、抵抗感がないので、読者はその立場に立ちやすいからね。」
「そうだね。それといわゆる〈狂言回し〉で、物語を進める役でもあるよね。」
「じゃあ、今回の話を進めるね。虎はやっぱり李徴だった。初めは泣いているけど、虎は李徴であることを認める。「如何にも自分は隴西の李徴である」という言い方が偉そうで李徴らしいね。袁傪は、お久しぶりの挨拶を交わした後、なぜ草むらから出てこないのかを聞く。李徴は虎の姿を見せれば、その恐ろしさにおののき、嫌われるからだと答える。でも、久しぶりに友人に会って恥ずかしさを忘れるほど懐かしいので、しばらく虎になった姿を嫌わないで、自分と話をしてほしいと願う。意味はざっとこんな感じかな。難しい語句は自分で調べなよ。」
「はい。ここは、話し言葉なので、大体わかります。」
「では、みんなに聞くよ。ここからどんなことがわかるかな?何でも自由に言って。」
「李徴は「異類の身」とか「あさましい姿」とか「我が醜悪な今の外形」とか、自分がすっかり変わってしまったことを強調しているよね。」
「「あさましい姿をさらせようか」とか「愧赧の念をも忘れる程に懐かしい」とか、自分の気持ちを述べている。」
「何か芝居がかっているよね。表現が大袈裟。」
「これって、自分の悲劇性を訴えているんじゃないのかな?人は大概、悲劇の主人公になりたいって願望を持っているからね。」
「「自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決っている」とか「我が醜悪な今の外形を厭わず」とか、袁傪の気持ちを先回りして言っている。」
「こうしたことから、李徴が自意識過剰なことがわかる。人からどう見えるかを絶えず気にしている。」
「悲劇の主人公になろうとするのは、優越感の裏返しだよね。自分が選ばれた人だと思いたいということだから。それくらい優越感をくすぐることは無い。」
「では、純子に課題。李徴は、なぜ袁傪と話がしたいのかな?」
 李徴は、虎になっても李徴なんだね。李徴らしさがよく表れている。自分を悲劇に主人公だと思うのは、優越感の表れなんだね。確かにここで李徴は自分の悲劇性をすごく強調している。

コメント

  1. すいわ より:

    「発狂」して行方不明となった李徴、異類の身である事を除けば、自分本位に相手の気持ちまでも決めつけて何ら変わっていません。「発狂」もポーズだったりして。「愧赧の念も忘れる程に懐かしい」、優秀かつ容貌麗しいかつての李徴を知っている、しかも自分に好意的な人物‥落差が激しければ激しい程、その悲劇度は高まるというもの。成る程、身を明かすのが袁傪である必要があったわけですね。帰れない理由が仕事や詩業がままならないのでなく、虎になってしまった、のなら自分の能力の足らなさを問われる事もありませんね。どこまでも自分は優秀な選ばれる人物であり続けたいというスタンスこそが悲劇的だと思うのですが。

    • 山川 信一 より:

      悲劇も自分の至らなさを隠す手段になっていますね。
      「どこまでも自分は優秀な選ばれる人物であり続けたいというスタンス」はむしろ喜劇的ではありませんか?
      チャップリンの言葉「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ。」を思い出します。

  2. らん より:

    袁傪は優しい人ですね。正義の味方、ヒーローです。
    李徴はすっかり悲劇の主人公ですね。
    あれ❓李徴が袁傪と話をしたがってるんですか❓
    となると、やっぱり叢にいて声を聞かせたことはわざとなのでしょうか。
    と思えてきました。
    何を話したいのでしょうか。気になります。

    • 山川 信一 より:

      李徴は袁傪に話を聞いてもらいたかったのです。だから、それには自分が李徴であると気づいてもらわなければなりませんでした。
      だから、何度も危ないところだった(もう少しで食い殺してしまった。)と繰り返しつぶやいたのです。
      本当に「あまりの偶然に驚いて動揺して」いるだけなら、さっさとその場を立ち去ればいいのですから。

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