下人の行方は、誰も知らない。
美鈴がトリになった。最後の一文だ。どんな風にまとめるのかな?
「実は、この文は初め「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」となっていました。それをこう書き改めました。その理由は何でしょうか?」
「これだと、下人の具体的な行動ではあるけれど、最後の文としては弱い。最後の文なら、主題をはっきりさせたい。」
「そうだね。下人は実際強盗を働きに急いでいたのかもしれないけれど、その通り実行できる保証は全くない。なぜなら、引剥でさえこれだけの好条件が揃って、やっとの事でできたのだからね。ましてや強盗などできるはずがない。」
「こんな自分の無いあやふやな優柔不断な人間の未来は、真っ暗闇のように見通しが利かない。だから、どうなるかは誰にもわからない。」
「下人は、その場の状況と人の反応によって行動しているからね。自分が無いんだ。」
「でもさ、こういう人ってどこにでもいるんじゃない。実はあたしだってそういう面がある。いつも自分がどう思われるかを気にしている。」
「そうだね。あたしも学芸会の出し物を選ぶとき、友達に合わせてしまったりする。」
「そんなのまだいいよ。進路も友達に合わせる人がいるんだから。」
「この作品で芥川龍之介が描こうとしたのは、日本人の典型じゃないかな?だから、名前のない下人なんだ。日本人は、つまらない者・品性の劣っている者だって言ってるんだ。」
「それを、理屈ではなく、物語として、それもあらゆる表現を駆使して作品に仕上げたんだ。」
「これぞ小説だね。」
「あのぅ・・・。」「なに、美鈴。」
「あたし、思うんですけど、下人が日本人の典型だって認める人と認めない人がいて、認める人も、自分もそうだと思う人と自分は違うって思う人がいるんじゃないかって。」
「そうだね。で、あんたはどれなのさ。」
「あたしは、認めてそうだと思う人。」
「あんた、いい子なんだね。」
「えへっ・・・、うん。」
芥川龍之介は、『羅生門』を帝国大学の学生の時、二十三才の若さで書いたんだって。この人を天才といわずして、誰を言うんだろう。常人とは頭の構造が違うよね。あたしは小説家になれるんだろうか?
コメント
下人のその後は具体的に書くより想像してみてくださいということでしょうか。
芥川さんは天才ですね。
こんな奥深い小説を若い時に書いたなんて。
下人は嫌なやつだけど、私だって下人みたいなとこあるなあと共感できる小説でした。
いえ、誰にも想像さえも出来ないと言うことです。
だって、状況次第でどうにでもあるんですから。すべては成り行きです。
読者は、美鈴みたいに読んでくれるといいですね。他人事だなんて思わずに。
具体的な行動を書かないことで下人に読み手は自分を投影しやすくなりますね。私だったらこの後、どう行動するか、と。読み手の数だけ下人の結末が存在する、一つの結末には辿りつかない。
人間って良い事をしながら悪事も働く、そんな自分を引き受けられるかどうか。
日本人の典型、、自ら考えて動かない、旗色の良い方に追従する、、芥川さんの時代から変わっていませんね。私ですか?下人というより、狡くてふてぶてしい老婆寄り。黒いです。
私がもっとも許せないのは、責任回避や責任転嫁です。誰も自ら責任を取ろうとしません。なるべく責任を取らずに済む方法ばかり考えます。
たとえば、かつての教え子の一人にこの欄に「コメントを書きませんか?」と聞いたら、「全国にバカをされしたくありません。」と言われました。
これも、他人の目を気にして、責任を取りたくない生き方の表れです。
私も責任の取れる人間を育てられませんでした。文化の壁は厚いです。〈日本人の行方は、誰も知らない。〉ですね。
「全国にバカをさらしたくありません。」!なんと、私はこの一年程、バカを晒しまくっていた訳ですね。教室にいたら、さぞ手の焼ける生徒だった事でしょう。全国区でバカが知れ渡ったからにはこれから先、大手を振って何でも言えます。愉快愉快。確かに私は日本で生まれて日本人の親の元に育った日本人ですが、私が選んでそうなったのでないので、まず私が私でありたい。日本人の行方は誰も知らない、でも取り敢えず、私は私の行きたい(生きたい)ようにします。幸い人の足は前に進みやすいように出来ている事ですし、一歩踏み出した景色を見たいと思います。
「責任の取れる人間を育てられなかった」と先生は仰いますが、先生一人だけの影響を受けて一人の人間が出来上がってある訳ではありませんよね。先生が思っていらっしゃるよりもちゃんと、生徒さん、育っていらっしゃいますよ。先生の元で国語学んでいたら、私は国文目指していたかも。子供は親の姿、思っている以上に見ています(私も出来る限りサボらず勉強します、、)先生がその事に責任を感じられて、まだ出来ることが、とこの講義を立ち上げて下さったおかげで、国語難民が一人、確実に救われております。有難い、有難いです。感謝致します。
すいわさん、ありがとうございます。あなたのお言葉にどれほど救われたことでしょう。
私がある教え子からくだんの言葉を言われて、どれほど打ちのめされたか、当人には想像もつかなかったことでしょう。
私が生徒に身に付けてほしかったのは、まさにそのすいわさんの強さです。下人でも老婆でもない第三の生き方を実践することです。
かつての教え子たちがすいわさんのこの言葉を読んで、我が身を振り返ってくれることを祈ります。
神無き民である日本人が頼りにするのは、人の目です。したがって、良心さえも人の目から生まれます。
それに加えて、民主主義が自主性の名の下に、師弟関係を壊しました。生徒は教師から学ぶ術を知りません。
教師も教師から学ぶ態度を無理強いしません。民主主義の構成員は、賢く善良であることが前提だからです。放っておいても、生徒は背を見て育つはずだと。
しかし、現実はそうなりません。誰もが賢く善良というわけではないからです。文化の壁は極めて厚いのです。
それでも、すいわさんのお陰でまた「勇気」が湧いてきました。諦めるとは全然反対の方向に行く勇気です。次回は、中島敦の『山月記』です。全力で面白い授業にします。