ある勇気

 下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

 美鈴の番だ。老婆の話に下人はどう反応するのかな?
「下人の聞く態度からどんなことがわかりますか?」
「まず「太刀を鞘におさめて」から」から、下人の憎悪が次第に収まってきたことがわかる。次に「その太刀の柄を左の手でおさえながら」から、老婆にすっかり気を許したわけではないことがわかる。」
「「冷然として」は、「この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していた」に対応している。さっきとはそこが違う。冷静で理性が働いていることを表している。」
「「赤く頬に膿を持った大きな面皰を気にしながら」からわかることは?」
「膿は、ばい菌とそれと闘う過程で崩壊した白血球などだよね。だから、下人の、あれこれと葛藤しているドロドロした内面の象徴じゃない。」
「では、面皰を気にしていることからどんなことがわかりますか?」
「だから、面皰って迷いの象徴じゃないかな?だって、面皰は生き方が定まらない若い時期のものじゃない?下人もまだ若いから、どう生きたらいいのか迷っていることだよ。」
「それは面皰が既にそうですよね。それを気にするってどういう心理ですか?」
「それは人の眼を気にする心理だよ。面皰は膿むと痛いけど、目立つところにできると、それ以上に人の眼が気になる。」
「と言うことは、この場合、何かに迷っている姿が老婆の目にどう映っているのかを、下人が気にしているということなんだ。」
「「ある勇気が生まれて来た。」とあるけど、どんな勇気ですか?」
「盗人になる勇気。悪人として生きていく勇気。」
「なぜ勇気が生まれたのですか?」
「老婆が下人に都合の良い理屈を話してくれたから。」
「どう都合が良いのですか?」
「実は、下人もとっくの昔にそう思っていた。けれど、自分だけの判断では、実行する自信がなかった。しかし、ここにそう思ってそれを実行している者がいた。同じように思っているこの老婆に対してなら、盗みができると思えてきたから、勇気が出たんだ。」
「ここは、「ある勇気」について、とても丁寧に説明されています。なぜでしょうか?」
「読者に勇気についてじっくりと考えてほしかったからだよ。人間は考えたことをそのまま実行できるわけじゃない。実行するには勇気が要る。では、なぜ勇気が出るのか?勇気の正体を明らかにしようとしてるんじゃない?」
「つまり、勇気は相手の出方によるものなんだね。」
 老婆の理屈は単純だ。下人にもそんな理屈はとっくにわかっていた。勇気が出なくて実行できなかっただけだ。なぜなら、その理屈の正当性に裏付けがないからだ。ところが、老婆はそれを保証してくれた。しかも、その対象になっても文句が言えないのだ。下人にとってなんて都合が良いの!これじゃ、盗人になる勇気が出るのも当然だ。

コメント

  1. すいわ より:

    物語のはじまり、〈下人〉の定義、「ここは奉公人・使用人がいいかな、でも、品性の劣っている者」の含みもあるかな?と部員の話し合いで言っていましたね。自分の行為を誰かのせいに出来る言い訳を都合よく手に入れたのですね、下人。自分で自分を引き受ける事をしない、責任を負わずに済むならば、自分が選択したと思う必要もない。太刀の柄から手を離さないあたりがまた、どこまでも自身の保身に余念がないですね。「勿論、右の手では‥気にしながら」というところが、それでも一貫して人の眼を強く気にしている事を伺わせます。膿を持った面皰は噴出寸前、ドロドロの内面が露わになったとしても、それがどんなに醜いものでも、それは自分のせいじゃないと裏打ちするものがあれば「勇気」は出るものなのでしょうか。未熟で迷う事はあると思います。でも、若い時、こんなだったかしら。下人の気持ちに添えないなぁ、、添えません。

    • 山川 信一 より:

      下人はどこまでも責任を回避しようとします。誰にも何か言われたくないのです。
      老婆の存在は、「自分の行為を誰かのせいに出来る言い訳を都合よく手に入れ」るのに役立っただけでなく、その対象になってくれるので有り難かったのです。
      下人は、我々の恥部です。もっとも見たくない、目を逸らしたい本性です。
      芥川龍之介はそれを見事に描き出しました。

  2. らん より:

    先生、老婆の理屈は下人に好都合な理屈でしたね。
    老婆が対象になっても文句は言われませんね。
    下人が動き出します。
    いやなやつだなあと思うけど、我々にもこんな部分、きっとありますね。

    • 山川 信一 より:

      好都合なのは、ここで老婆がそれを口にしてくれたことなのです。なぜなら、自分で言ったことをされても文句は言えないから。
      これは、恐らく誰にでも潜んでいる恥部です。私たちも気が付いていないだけで、同じような思考やそれに基づく行動をしています。振り返ってみるといいですね。

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