冷やかな侮蔑

「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘(かつら)にしようと思うたのじゃ。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。すると、その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。

 春菜先輩の番だ。ここは下人の心理の移り変わりが興味深いところだ。
「なぜ下人は老婆の答えが平凡なことに失望したのかな?」
「下人はもっと非凡で異常な答えを予想していたので、平凡だと都合が悪いんだ。」
「それはなぜ?」
「だって、その程度のことだと、自分のしたことの価値が下がるじゃない?あんなに必死になって、老婆を捻じ倒し、刀まで抜いて驚かせたのに、「えっ、鬘を作る?そんなことなの?」って気持ちになるからね。すっかり予想を裏切られたんだ。」
「もっと恐ろしい理由が無くちゃ、自分のしたことがバカみたいに思えてしまうよね。だから、がっかりしたんだ。下人にとって、老婆は極悪非道の人で無いと困るんだ。」
「下人は本当に自分勝手なヤツだね。」
「では、憎悪したのはなぜ?」
「自分を失望させたからだよ。つまり、自分の「安らかな得意と満足」を台無しにした。「前の」とは、前と同様の自分勝手な憎悪ってこと。だから、単なる憎悪じゃなくて「前の憎悪」と言うんだ。」
「「冷ややかな侮蔑」とは、何に対するどんな気持ち?」
「「冷ややか」と言うのは、思いやりに欠けるさま。だって、もう優しくする理由が無いもんね。」
「「侮蔑」は死人の髪の毛から鬘を作ろうとする、その卑しさに向けられたもの。卑しむべき行為だと思ったんだ。」
「これだって、自分の憎悪を正当化する理由だよね。死人の髪に毛で鬘を作ることが卑しいかどうかの基準は無いもの。下人にとって、卑しむべきことでないと憎めないから、侮蔑したんだ。つまり、侮蔑するから憎むのではなく、憎むために侮蔑したんだ。」
「前の場面では、同じことが「この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪」だった。」
「対照的だけど、心理の傾向は全く同じ。下人の本質は、まったく変わっていない。」
「「蟇のつぶやくような声」という直喩からどういうことがわかる。」
「下人が老婆を侮蔑していること。老婆は鴉からヒキガエルになった。一層下等動物になった。鳥類から両生類になって、人類から更に離れていった。」
「老婆はなぜ言い訳を始めたのか?」
「下人が優しそうであったときは黙っていた方が有利だと判断したけれど、憎悪と侮蔑が感じられ、ここは言い訳をした方がよいと判断したから。このままでは、危害を加えられそうだと思ったんだ。老婆は百戦錬磨の人物だからね。」
 下人は、本当に自分勝手なヤツ。無力な老婆だからこそ、自由に心が動いている。一般に人は、自分が優位にいると思うと、本性を剥き出しにする傾向がある。その人の本性を知りたいなら、相手を優位に立たせることだね。つまり、いい気にさせればいいんだ。それにしても、感情って当てにならないものだね。すべて自分の都合なんだから。

コメント

  1. すいわ より:

    下人の心理の変化が伺えるところですが、老婆が巧みに誘導しているように思えます。
    下人が老婆を見つけた時、老婆は死骸から一本ずつ髪を抜いていました。ちょっと不思議に思っていました。無気味さを出す為かとも思いましたが、簡単に抜ける程の頭髪、鬘にする為なら手櫛で髪を梳いて指の間に絡めとったものを集めればいい。その方が自然です。「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、、」この言葉を言わせるために、敢えてあの時一本ずつと作者は書いておいたのではないかと思いました。老婆は抜刀する下人が使い手ではないことを看破していて挑発、下人と駆け引きを試みようとしているように思います。老婆の思惑通り、下人は元の本性を現し、より老婆を蔑んで見下し始めますが、、蟇には毒がありますよね、。

    • 山川 信一 より:

      下人の心理は老婆という特別な人物に誘導されたものではありません。それがたまたまこの老婆だったので、このように動いたのです。
      ここでは、老婆を特別視すべきではありません。今、老婆がしているのは、下人の出方をうかがいつつ、どうこの窮地を言い逃れるかだけです。
      老婆を中心に据えて考えすぎると、別の話になってしまいます。

  2. らん より:

    えっ、鬘❓と下人の拍子抜けが感じられました。
    もっと極悪非道でなければ、自分がヒーローになれませんね。
    下人は弱虫のくせに調子がいいな。

    • 山川 信一 より:

      下人は自分が悪を退治した大した人間だと有頂天になっていました。
      こんなことは滅多にない、それどころか初めてのことだったのでしょう。
      だから、老婆のしていることが平凡では都合が悪いのです。
      もっとおどろおどろしい理由がほしいのです。

タイトルとURLをコピーしました