この男のほかに誰もいない

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗りの剥げた、大きな円柱に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

 今日は、〈新人〉の春菜先輩の番だ。大丈夫かな?がんばって!
「春菜、始めま~す。この段落で何か気づいたことはないかしら?」
「門が大きいようだね。羅生門は朱雀大路の一番南にある門だからね。京の街はここから始まるんだ。」
「「大きい」じゃなくて、「広い」とあるのは、広がりを意識しているからでは。空っぽな感じを出そうとしたんだ。」
「「この男のほかに誰もいない。」がこの段落の初めと終わりに繰り返されている。つまり、この段落で言いたいことはこれなのね。」
「すると、他の部分もそれに関係があるはず。」
「じゃあ、具体的にどう関係しているの?」
「「蟋蟀が一匹とまっている。」とある。これは人気が無い証拠になる。多くの人がいたら蟋蟀は近寄らないもの。」
「朱雀大路は京の街の真ん中の大通りだね。その端とは言え、そこにこの男しかいない。それを「ありそうなものである。それが~誰もいない。」と書いてある。これは普通の状態を示してそれを否定する、所謂、二重否定。二重否定は強い肯定だから、異常さを強調したいんだね。」
「では、「市女笠や揉烏帽子」とは?」
「それを被る男と女のこと。これを換喩・メトニミー(英: metonymy)と言う。メトニミーは、ある対象をその部分に注目して表す表現法のこと。メガネ君とかリボンちゃんとかあだ名を付けるのと一緒。西村義樹という認知言語学者は、「参照点」と「ターゲット」と呼んでいる。この場合だと、「市女笠」や「揉烏帽子」が参照点で、それを被った男と女がターゲット。」
「じゃあ、なぜメトニミーを使ったの?」
「この時代がいつ頃かを知らせるため。多分、平安時代あたりかな?」
「更にその時代の日常風景を具体的に思い浮かべてもらうためだね。その上で否定するといっそう人気の無さが際立つ。」
「戻るけど、「所々丹塗りの剥げた、大きな円柱に」と円柱の特徴を述べたのはなぜ?」
「リアリティを持たせるため。細部を描くのは効果的なんだ。それと、「剥げているのはなぜ?」という小さい疑問を持たせるため。」
 春菜先輩、落ち着いていたな。まだ少しぎこちないけどね。この段落の表現は、この時羅生門のあたりにはこの男の他には誰もいない、いつもとは違う状態だったことを言うために作られているんだね。言葉の効果を計算し尽くして表現している。メトニミーーか、いろんな表現法があるんだね。

コメント

  1. すいわ より:

    「羅生門」、小学生終わる頃に初めて読んでから何度か読んでいると思うのですが、毎回思うのが、この作品、色彩を感じないのです。水墨画を見て色彩を感じるのと正反対に、「丹塗り」と色名まで出てきているのに「広い門」、都の目抜き通りなのに「剥げた大きな円柱」、「蟋蟀」、「ほかには誰もいない」と畳み掛けるように空疎な寂れた雰囲気と無表情な雨の「ざー」という音に支配されてしまうのです。今回読んでみて、ここにいない「市女笠」「揉烏帽子」の男女の顔も「ない」。ひたすら不気味です。

    • 山川 信一 より:

      「市女笠」「揉烏帽子」の男女の顔も「ない」というご指摘、なるほど。確かに人の気配を感じさせません。そのためのメトニミーでもあったのでしょう。
      芥川龍之介の周到さには舌を巻きます。色彩について言えば、白黒映画の中に時々色がさっと入るような気がします。

  2. らん より:

    この小説、面白いのですが、怖いイメージがあって。
    なんか、怖いんです。

    しーんとだれもいなくて、世界で1人だけ生き残っているような感じです。
    広い門と丹塗りが剥げた大きな円柱ときりぎりすが効果的ですね。

    • 山川 信一 より:

      作者が無気味に無気味に書いているのですから、怖いと思うなら作者の思い通りですね。
      「広い門」と小さな「蟋蟀」が対照的に描かれていますね。寂しさが伝わってきます。

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