ルロイ先生、死ぬのは怖くありませんか

 上野駅の中央改札口の前で、思い切ってきいた。
「ルロイ先生、死ぬのは怖くありませんか。わたしは怖くてしかたがありませんが。」
 かつて、わたしたちがいたずらを見つかったときにしたように、ルロイ修道士は少し赤くなって頭をかいた。
「天国へ行くのですから、そう怖くはありませんよ。」
「天国か。本当に天国がありますか。」
「あると信じるほうが楽しいでしょうが。死ねば、何もないただむやみに寂しいところへ行くと思うよりも、にぎやかな天国へ行くと思うほうがよほど楽しい。そのために、この何十年間、神様を信じてきたのです。」
 わかりましたと答える代わりに、わたしは右の親指を立て、それからルロイ修道士の手をとって、しっかりと握った。それでも足りずに、腕を上下に激しく振った。
「痛いですよ。」
ルロイ修道士は顔をしかめてみせた。
 上野公園の葉桜が終わる頃、ルロイ修道士は仙台の修道院でなくなった。まもなく一周忌である。わたしたちに会って回っていた頃のルロイ修道士は、身体中が悪い腫瘍の巣になっていたそうだ。葬式でそのことを聞いたとき、わたしは知らぬ間に、両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていた。

「上野駅の中央改札口は、いつでも人混みが多い。それに紛れて、やっと聞きたいことが聞けたのね。」
「この言葉は、ルロイ先生は重い病気に罹っているのですね。この世のいとまごいに会いに来てくれたのですねという思いが込められているんですね。言葉の意味と込められた思いはいつも一致するとは限らないから。」
「それを聞いたルロイ修道士が少し赤くなって頭をかいたのはなぜかしら?」
「隠していたことがわかってしまったからじゃない。その通りだったから。」
「でも、隠し事をしていた後ろめたさもあるから、表面的な問いに答えるんですね。」
「天国についてのルロイ修道士の答えをどう理解すればいいのかな?」
「そう怖くないということは、少しは怖いってこと。」
「天国を信じた方がよほど楽しい、そのためにこの何十年間、神様を信じてきたと言っているけど、これは理屈だよね。ホントのところどうなんだろう?」
「「この何十年間」の「この」がひっかるな。「この何十年間」は、天使園の園長をしていた時期と重なるよね。その間に実際にしていたことは何だろう?本当に神様を信じてきたの?そうだとしても、実際してきたことは、園児たちの世話だよね。それが信仰に繋がるにしても。」
「実際にしていることが、つまり、時間を掛けたことがその人を作るのね。と言うことは、ルロイ修道士は、「この何十年間」宗教人ではなく、むしろ教師として生きてきたということね。極端に言えば、信仰をほったらかしにして、教育に励んでしまったのよ。その結果、天国が少し信じられなくなっているんじゃないのかな?だから、死ぬことが怖いのね。」
「ルロイ修道士は、先生になってしまったんですね。天国についての言葉は自分に言い聞かせているみたいです。」
「園児を回っていると言っても、すべての園児に挨拶には行けないな。だから、ひどいことをした園児を選んで訪ねて、謝っているんじゃないかな。」
「それは、教師として生きた自分の人生を全うしたいという願いですね。」
「「わたし」は右の親指を立てて、それから握手する。なんでこんなことをしたのかな?」
「死ぬことが怖いルロイ修道士を励まそうとしているんだよ。かつて、自分が励まされたように。」
「「『痛いですよ。』ルロイ修道士は顔をしかめてみせた。」とあるけど、この反応がいいなあ。言葉で答える代わりに、気持ちを伝えているんだ。」
「どんな気持ち?」
「「顔をしかめてみせた」に注目したい。「しかめた」じゃないんだ。「しかめてみせた」になっている。これは意図的にしていることを表している。つまり、あなたの気持ちは伝わりましたよ。今度は私が励まされる番なのですね。あなたは、人を励ませるほど立派に成長しましたね。私は嬉しいです。ありがとう。・・・そんな気持ちじゃないかな?」
「そうなんだ。なんて感動的な場面なの。あたし、涙が出て来た。ルロイ修道士って、なんていい先生なの。」
「ルロイ修道士は、まもなく死ぬんだね。この時も身体が辛かったろうな。それなのにわざわざ会いに来たんだ。それも謝るために。ほら、前に日本人を代表するようなことを言った場面で「指の先は天井を指してぶるぶる細かく震えている。」とあったけど、あれは怒っていたわけじゃなかったんだ。「身体中が悪い腫瘍の巣になっていた」からなんだ。そんな身体で会いに来たんだ。」
「だから、「葬式でそのことを聞いたとき、わたしは知らぬ間に、両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていた。」んだね。でも、これってどんな気持ち?」
「「先生も悪い子です。そんな身体で会いに来てはいけません。」って気持ちじゃないの?」
「う~ん、そうも思えるけど、そうさせたのは誰?そもそも、ルロイ修道士が悪い病気になったのも、自分の身体を顧みずに園児たちのために働いたからだよ。しかも、謝りに来させたのは、園児たちが悪いことをしたからだよね。病気のルロイ修道士に更に辛いことをさせたのは、「わたし」を含めた悪い園児なんだ。だから、心の中で、先生、ごめんなさい、ごめんなさいって謝っているんだ。」
 易しいと思ったけれど、考えさせられる作品だった。テーマは、教師だったんだ。先生と生徒のあり方をもう一度見直してみよう。世の中にはなかなかいい先生がいないなあ。だから、この作品にみんな惹かれるんだね。
 井上ひさしの作品は面白い。他の作品も読んでみよう。

コメント

  1. すいわ より:

    葉桜が終わる頃に亡くなったのだから、子供達を訪ね歩いた時、ほとんど時間は残されていなかったのですね。
    修道士でありながら、天使園の子供達を第一に身も心も尽くし、それはある意味、神に背く行いだったかもしれません。でも、、。「そのために、この何十年間、神様を信じてきたのです。」、ルロイ修道士は現世で子供達を信じて、天使園という「天国」に既にいたのではないでしょうか。最後の審判、ぶったことを後悔し子供達を訪ね歩き、その裁きを仰ぐ。ルロイ修道士の言葉を聞いて「わたし」はもう、言葉を発することも出来なかったのでしょう。心を伝える指文字、固く握る手を、修道士が顔をしかめて見せなければ「わたし」は離すことが出来なかったのではないでしょうか。地獄の門をくぐることなく、天使園という天国へ、ルロイ修道士は帰って行かれた。「両手の人さし指を交差させ、せわしく打ちつけていた。」きつい身体で無理をして、自分たちを置いて行った先生に対する気持ちもあったかもしれませんが、きっと自分に対してだったのでしょう。今度は平手打ちも返ってこない。ひと月ではなく、永遠の沈黙。悲しいのはその人と過ごした時間がかけがえのないものであったからこそ。知らぬ間に出てくる指文字、「わたし」の中に確かにルロイ修道士は生き続けているのですね。

    • 山川 信一 より:

      別れの場面で、ルロイ修道士と「わたし」が握手で心を通わせた場面は、何度読んでも胸がいっぱいになります。
      二人とも敢えて本音は言葉にしないで、伝え合っています。題名が握手である意味がよくわかります。
      死者と生者の違いは、もしかしたらそれほどないのかもしれません。英語でmajorityと言えば、死者のことを指します。死者の方がずっと多いからです。
      ルロイ修道士と「わたし」はこれからもずっと心を通わしていきます。

      • すいわ より:

        今回も胸の熱くなる良い作品を読ませて頂き、有り難うございました。井上ひさしの作品で先生のお勧めがありましたら、幾つかご紹介頂けますか?

        • 山川 信一 より:

          こちらこそ、いつも熱いコメントをありがとうございます。
          井上ひさしは、どれも面白いのですが、短編なら『握手』も載っている『ナイン』という短編集。長編なら『東京セブンローズ』『一週間』がお薦めです。
          さらに、「国語教室」でも上がっていましたが、『マンザナ、わが町』『ムサシ』などの戯曲はもっといいですね。
          明日から授業を再開します。次の作品は三浦哲郎『盆土産』です。

  2. nina より:

    ルロイ先生は「親子二代で天使園に入ることはない」と言ったあとすぐ
    時計をみます。
    これはなにか意味があるのでしょうか

    • 山川 信一 より:

      もちろん、私たちは時間を確認したいときに時計を見ます。
      この時のルロイ修道士も帰りの汽車の出発時間を気にしていたのでしょう。
      一方、楽しい話に夢中になっているときなど、時間を忘れて話し込むこがあります。
      ルロイ修道士にとって、「いっとう悲しい」思い出は、時間を忘れて話し込みたいほど楽しい話ではなかったのでしょう。
      むしろ、打ち切るきっかけをさえほしかったのかもしれません。

  3. nina より:

    なるほど。
    ありがとうございます。

タイトルとURLをコピーしました