井上ひさし『握手』

 井上ひさしの『握手』を扱います。これは読みやすい小説です。この作品が中学三年の教科書に入っていて、『少年の日の思い出』が中学一年の教科書に入っているのはおかしい。順序が逆です。とは言え、読みやすいからと言って学ぶべきことが少ないというわけではありません。余裕を持って学ぶことも大切です。
 あれから一年経ち、文芸部の部員も学年が上がり、沢渡真登香は高3、武井若葉は高2、島田美奈子は中3、桐野美鈴は中2になっています。新入部員も入りましたが、この班のメンバーは替わりません。既に三学期になっています。もうこのメンバーで二年近くやって来たので、チームワークは抜群です。

 上野公園に古くからある西洋料理店へ、ルロイ修道士は時間どおりにやって来た。桜の花はもうとうに散って、葉桜にはまだ間があって、そのうえ動物園はお休みで、店の中は気の毒になるくらいすいている。いすから立って手を振って居所を知らせると、ルロイ修道士は、
「呼び出したりしてすみませんね。」
と達者な日本語で声をかけながら、こっちへ寄ってきた。ルロイ修道士が日本の土を踏んだのは第二次世界大戦直前の昭和十五年の春、それからずっと日本暮らしだから、彼の日本語は年季が入っている。
「今度故郷(くに)へ帰ることになりました。カナダの本部修道院で畑いじりでもしてのんびり暮らしましょう。さよならを言うために、こうして皆さんに会って回っているのですよ。しばらくでした。」

「この作品は易しいから、今回はフリートークということでやろうね。」と真登香班長が言った。たまには、こういうのもいいいな。
「あたし、この小説、好きだなあ!」「あたしも。」「私も。」「うん、あたしも。」
 とても人気のある小説なのである。
「こんな先生いないよね。」「優しいし、信頼できるし。」「こんな先生がいたらなあ!」「誠先生はどうよ?」「そうだね、イマイチかな?頭悪そうだし(笑)。」「好きなのは、あたしたちだけじゃないみたいよ。この西洋料理店は、上野精養軒よね。ここは、地方からの修学旅行の人気スポットになっているんだって。」「聖地なんだね。」
「上野公園は、いいところだよね。動物園はあるし、博物館や美術館もある。桜もそうだけど、銀杏の紅葉もきれいだしね。」
「そうそう、噴水もあるよね。大道芸もやってるし、イベントもよく開かれている。」
「私は芸大の隣にある国会こども書館が好きだわ。すごく立派な建物よ。」
「スタバもできたよね。あたしは、よく行くよ。精養軒は奥の方にあって、不忍池が見下ろせるんだ。」
「でも、さすがに桜の季節が終わると、ウイークデーは閑散としているかな?この日は、動物園が休みだから月曜日ね。ルロイ修道士が「わたし」を呼び出したのね。「わたし」は勤め人じゃないようね。以前、上野駅は「北の玄関」と呼ばれていたのよ。ここが東北に行くのに都合がよかったのね。」
「ルロイ修道士は真面目で謙虚な人だね。「時間どおりにやって来た」とあるし、呼び出したことを謝っているもの。」
「この小説は1987年に出た短編集『ナイン』の一編だけど、この小説の中には、今がいつかが書かれていない。好きなように読めってことかな。昭和15年は、1940年だからもう47年も経っているんだ。ルロイ修道士が仮に20歳で日本に来ても、67歳になっている。はっきりしたことはわからないけど、もうお爺さんになっていることはわかる。」
「さすがに修道士も定年なんだね。戦争を挟んで、長い間日本にいたんだ。」
「それにしても、ルロイ修道士の日本語は上手だよね。「呼び出したりして」の「~たりして」がなかなか言えない。逆に言うと、作者は、日本語がいかに達者なのかを伝えるためにこの言い回しを使ったんだ。」
「故郷を「くに」と言うところもそうよね。」
「「畑いじり」も。もう日本人と言ってもいいほど、日本に馴染んでいるってことだね。」
「ちょっと気がついたんだけど、「しばらくでした」が最後に来ているのはなぜ?順序が不自然な気がする。久しぶりに会ったのなら、普通ここから始まるのでは?」
「そうか、ルロイ修道士は嘘をついているからだよ。普段正直な人ほど、嘘をつく時は不自然になる。それでこうなったんだ。作者は、その不自然さを出すために順序を変えたんだ。」
 あたしは、侮れないなと思った。井上ひさしは只者じゃない。

コメント

  1. すいわ より:

    「私もこの小説好き!」と一緒に言えない!読んでおきます。
    呼び出された人が定刻より早くに到着して待っているので、目上の人なのだろうと思いましたが、ルロイ修道士は先生なのですね。定刻には着いたものの、相手が待っていたので慌てて呼び出した用件を一息に話してその後、挨拶されたのかと思いました。それくらい親しい仲なのかと思いましたがルロイ修道士は嘘をついているのですね。話した言葉が取ってつけた台詞のように見えてきます。外国の、しかも本部修道院に帰るとしたら、俗世の人と簡単には会えなくなる、という事ですね。布教のために来日したのでしょうか。大変な時代を経られたでしょうに、穏やかな人柄が伺えます。

    • 山川 信一 より:

      この作品でも初コメント、ありがとうございます。この小説はまだ未読なのですね。もちろん読むのは簡単ですが、その都度考えるというのもいいかもしれません。
      先入観がないので、かえっていい読みができることもあるからです。「定刻には着いたものの、相手が待っていたので慌てて呼び出した用件を一息に話してその後、挨拶されたのかと思いました。」もいい指摘です。
      そういう面もあるので、あまり不自然さを感じさせないのでしょう。これは先を知っていると、気がつきにくいことです。

      • すいわ より:

        お言葉に甘えて、この作品と次予定の2作品、内容知らずのまま参加させて頂きます。宜しくお願い致します。

  2. らん より:

    井上ひさしが大好きです。
    この作品も大好きなので、これから深く勉強していけることがとても嬉しいです。
    しかし、しばらくでしたが最後にきてて、嘘をついているからとは。
    そういうことなのですね。
    みんなの観察力は鋭いなあ。私もこれからそういう力を養って行きたいなあと強く思いました。

    • 山川 信一 より:

      らんさんも井上ひさしの作品が大好きなのですね。どうぞ、部員の一人になったつもりで参加してください。
      ある現象が実は別の意味を持っているというのがこの作品を読み解く鍵になっています。
      「しばらくでした」が最後に来ているのもそれでしょう。

タイトルとURLをコピーしました