少年の論理

 盗みをしたという気持ちより、自分がつぶしてしまった、美しい、珍しいちょうを見ているほうが、僕の心を苦しめた。微妙なとび色がかった羽の粉が、自分の指にくっついているのを見た。また、ばらばらになった羽がそこに転がっているのを見た。それをすっかり元どおりにすることができたら、僕は、どんな持ち物でも楽しみでも、喜んで投げ出したろう。

「ここには、自分がつぶしてしまったちょうを見ている「僕」の気持ちが書かれているわね。」と明美班長が話し始めた。
「「微妙なとび色がかった羽の粉が、自分の指にくっついているのを見た。」というのがリアルだね。」と若葉先輩。
 ちょうの羽にはそんなに粉が付いているんだ。でも、何の役に立つのかな?
「所謂鱗粉ね。気持ち悪いなあ。」と真登香先輩が露骨に嫌な顔をした。
「それより、この時の「僕」の気持ちよ。つぶしてしまったちょうを見ることが心を苦しめたとあるわ。元どおりにできたら、どんなものでも投げ出すと言っているのよ。これは相当のものね。」と明美班長が議論を軌道修正した。
「なぜそう思ったんだろう。自分の罪を軽くしたいからじゃないよね。」と若葉先輩が疑問を投げかける。
「「僕」は盗みの罪よりバラバラになってしまったちょうを見るのに堪えられなかったんじゃない?」と真登香先輩が答えた。
「つまり、この時の「僕」はその形が損なわれてしまったことが何より辛かったんですね。」とあたしが念を押した。
「自分を守りたいという思いじゃなくて、ちょうそのものへの愛によるのね。」と明美班長がまとめた。
 その時、誠先生がやって来た。「議論が大分盛り上がっていますね。」と口を挟んだ。そして、次のようなことを言った。
「大人と少年とでは、価値観もそれに基づく理屈が違います。同じことでも意味づけが違んですね。ちょうを盗むことがいけない理由も大人と少年とでは違います。大人の理屈では、盗みが社会的に許されないからです。それを認めたら社会は大混乱になります。少年の理屈でも盗みはもちろんいけない。しかし、その理由はちょっと違います。たとえば「僕」にとって、ちょうはそんな獲り方をしてはいけないものなんですね。だから、盗んじゃいけない。それに加えて、ここではそれをだいなしにしてしまいました。それはとんでもない悪なんです。じゃあ、後はみんなで考えてみてください。」
 誠先生はそう言うとまた行ってしまった。
 大人の理屈と少年の理屈かあ。そういうものがあるのかしら?いや、それに気づかないだけで、あるのかもしれない。でも、少年の理屈を経ないで、初めから大人の理屈を身に付けてしまう子どももいる。その典型がエーミールだ。で、あたしはどうなんだろう?大人の理屈だけが正しく、少年の理屈は価値の無いものなのかしら。

コメント

  1. すいわ より:

    「狼に育てられた少年」の事を思い起こしていました。狼として森で生きていたら、当たり前に服など着ないし、食事だって手で口に運ぶ事もない、手は手として機能させず、“前足”として獲物を抑え、口で直接かぶりつく。“ヒト”の社会に身を置く事になるや、その当たり前は当たり前ではなくなりますね。「僕」の居場所はヒト社会に有りながら天然自然の子供領域のルールが優先されている。だから大人の道理である「盗み」がいけない、でなく、子供の理屈、獲物は自分で仕留めるものだから「横取り」はずるいからダメ、といういけなさ、なのですね。
    頭で考えて整理する事で平均価値を知る事も大切。だからと言ってそこに優劣はつけられないようにも思います。蝶の価値の置き方、ディマンドサプライバランスで良いもの悪いものと判断を下す大人の理屈が、必ずしも「僕」の蝶を蝶という存在として愛し大切にする価値観より正当なものであるとは言えないと思うのです。
    とはいえ、僕も成長に伴ってヒト社会の一員として生きて行かねばならない。ヒトの中の自分を見つめる時が来たのですね。

    • 山川 信一 より:

      「僕」は自然から直接学んだことを手掛かりに生きてきました。しかし、先生を始めとする大人たちは、社会のルールを教え込もうとします。
      「僕」はそうした狭間にさしかかっているのです。その時にこの事件が起きてしまいました。

  2. らん より:

    大人の理屈と少年の理屈が違うということ。確かにそうだなあと思いました。
    少年がこんな風に蝶をとって、蝶を壊してしまった気持ちを思うと、かわいそうで、やるせない気持ちでいっぱいになります。
    時間を巻き戻してあげたくなりました。
    でも、大人にも、こういうことってありますよね。

    • 山川 信一 より:

      この話を大人の側から見れば、実に簡単な話です。「僕」は欲望に負けて盗みを犯した。それはいけないことだ。それで終わりです。
      しかし、ヘルマン・ヘッセはそうではないと、この物語を書いたのでしょう。

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