自分自身におびえながら

 ちょうを右手に隠して、僕は階段を下りた。そのときだ。下の方からだれか僕の方に上がってくるのが聞こえた。その瞬間に、僕の良心は目覚めた。僕は突然、自分は盗みをした、下劣なやつだということを悟った。同時に、見つかりはしないか、という恐ろしい不安に襲われて、僕は、本能的に、獲物を隠していた手を上着のポケットに突っこんだ。ゆっくりと僕は歩き続けたが、大それた恥ずべきことをしたという、冷たい気持ちに震えていた。上がってきた女中と、びくびくしながらすれ違ってから、僕は胸をどきどきさせ、額に汗をかき、落ち着きを失い、自分自身におびえながら、家の入り口に立ち止まった。

「西洋人でも、良心が他人の目によっても働くんだね。神とかじゃなくて。」と真登香先輩が言う。
 誰かが上がってくるのに気づいたことで、「僕」の良心が目覚めたからね。
「よく日本人は神無き民族と言われるよね。だから、神じゃなくて、人の目を頼りに生きているんだって。でも、西洋人でもそう変わらないんだね。」と若葉先輩。
 確かに、初詣とかに行くけど、神様を信じているかと言えば、多くの日本人はそうじゃない。あたしも、特定の神様を信じてはいない。でも、人の目は気にしている。
「自分で自分を「下劣なやつ」と悟っても、他人からはそう思われたくない。他人がどう思おうと自分のしたことは変わらないのに、バレなきゃ許されると思ってしまう。このことに洋の東西は無いということね。」と明美班長がまとめた。
「こういうのを虚栄心と言うのかな。」とあたしが聞いた。
「虚栄心とは、少し違うような気もするけど、そうかな?とにかく少しでも自分を取り繕おうとしているだから。誰しもあるよね、この心理。」と若葉先輩が一応同意してくれた。
「ちょうを「獲物」と言ってるね。これは、盗んだんじゃなくて、捕まえたという思いが強かったからだわ。盗んだと言うのは客観的な評価。でも、その時の思いではなかったのよ。」と明美班長が細部の言葉遣いに注目した。
 そうか、細部に真実が表れるのね。「神は細部に宿る。」って言葉もあったっけ。
「でも、したことに罪悪感があるからポケットに入れて隠してしまう。ゆっくり歩き続けたのもバレないようにするためだよね。取った時の別の心理が働いているのよ。」と若葉先輩が説明する。
「一方で、「大それた恥ずべきことをしたという」罪悪感にさいなまれる。でも、なんでそれを「冷たい気持に震えていた」と言うのかな?」と真登香先輩がみなに聞く。
「罪悪感が自分を罰していたから。悪いことをした自分を許せないから。」とあたしが答えた。
「女中は隣の子だから、違和感を感じなかったんだね。それにしても、女中を雇っているんだね。先生は結構お金持ちなのかな。」と若葉先輩が話を進める。
「そこから家の降り口までの心理が詳しく書かれているね。「びくびくしながら」「どきどきさせ」「額に汗をかき」「落ち着きを失い」はわかるけど、「自分自身におびえながら」はどうかな?なぜおびえたんだろう?」と明美班長が問題を出した。
「いい問いね。よく国語の試験問題で、この時の気持ちを説明しなさいというのがあるけど、あれって無理だよね。ここならおびえていたとしか言いようがないもの。それ以上に何を説明しろって言うだろうって思う。でも、気持ちはそれ以上わからないけど、その理由ならわかる。」と若葉先輩がおもしろいことを言う。
 なるほど、そうかも。気持ちを説明しろっていう問題が難しかったのはそのためなんだ。書いてないのはそれ以上言いようがないからなのに、無理に説明させようとする。あれって、問題としておかしいよね。
「そうだね。で、その理由はそれまでに経験したことのない心理だったからね。自分の知らない自分に出会ったから、よく知っている自分じゃなかった、自分が見知らぬ誰かのように感じたんだよ。」と明美班長が説明してくれた。
「そうか!それじゃ怖いね。どうなってしまうんだろうって感じたんだろうね。」と真登香先輩が同意した。
「家の入り口に立ち止まったのは、どうすべきかわからなくなったからだわ。ちょうを持ってきてしまったのは、ほとんど無意識だった。それが他者を意識することで、盗みとして意味づけられた。戸惑い、どうしたらいいかと迷う。」と明美班長が心理の移り変わりをまとめた。
「さすがヘッセ、心理の移り変わりに納得が行くわ。」と若葉先輩もうなずいた。
 こんな短い描写でこれだけのことが盛り込まれているのね。作家の人間観察は細やかなのね。とにかく描写力が素晴らしい。あたしもこんな文章が書けるようになりたいなあ。

コメント

  1. すいわ より:

    部員の皆さんも仰るように、「良心が目覚めた」後ですら蝶の事を「獲物」と言っている事が気になりました。思えば、「僕」が蝶の収集を他者から「評価」された初めてが、コムラサキをエーミールに見せた時ではなかったでしょうか。完全な形でないコムラサキをエーミールにけなされ傷付きはしましたが、だからと言ってコムラサキに対する愛着は変わらぬ温かなものだったはず。嫌なエーミールにでも見せたかったコムラサキ。対して喉から手が出るほど手に入れたかった完璧な形のクジャクヤママユ、自分の掌に収めたものの、その愚かな行為のせいで人の目から「隠さねばならないモノ」にしてしまった。宝物を自分の行為で貶めた「僕」。そこには最高の獲物を手にした時のあの高揚感は無く、澱のように心の底に溜まった罪の意識で身動き出来ない。今までに自覚した事のない知らない自分がそこにいる。怯えずにいられません。

    • 山川 信一 より:

      良心が目覚めて、「僕」は自分がクジャクヤママユを正当な方法で手に入れたのではないことに気づきます。大人の世界では、盗みという意味で許されない行為です。
      しかし、「僕」の世界でも、その意味であってはならないことだったのです。「僕」にとって、ちょうはこんな風に獲ってはいけないものなのです。

  2. らん より:

    自分自身におびえながらというところが考えさせられました。
    私の中にもいろいろな自分がいるよなあと。
    すべて引っ括めて自分です。天使な私も悪魔の私も。。。

    • 山川 信一 より:

      自分のことは自分が一番よく知っていると思っています。それがそうじゃないと知った時、こんな自分がいたんだと不安になりますよね。

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