遊戯のとりこ

 僕は、八つか九つのとき、ちょう集めを始めた。初めは特別熱心でもなく、ただ、はやりだったのでやっていたまでだった。ところが、十歳ぐらいになった二度目の夏には、僕は全くこの遊戯のとりこになり、ひどく心を打ちこんでしまい、そのため、ほかのことはすっかりすっぽかしてしまったので、みんなは何度も、僕にそれをやめさせなければなるまい、と考えたほどだった。ちょうをとりに出かけると、学校の時間だろうが、お昼御飯だろうが、もう、塔の時計が鳴るのなんか、耳に入らなかった。休暇になると、パンを一切れ胴乱に入れて、朝早くから夜まで、食事になんか帰らないで、駆け歩くことがたびたびあった。

「流行に影響されて始めるのはよくある話よね。それにいつの間にか、はまってしまうのも。」と真登香先輩が口火を切る。
「それも、何もかも忘れるほど、夢中になったんだ。「学校に時間だろうが」ってあるから、ちょう獲りに夢中になると、学校までサボることがあったんだね。これじゃ、親や教師たちは心配しますね。」とあたし。昔そんなことがあったような・・・。でも、何だっけ?
「親や教師って、そんなもんじゃない?勉強以外のことに夢中になると、直ぐに心配して止めさせるよね。」と若葉先輩。若葉先輩にも経験があるのかな?
「そうだね。でもさあ、食事も忘れて打ち込むことってある?今なら何だろう?テレビゲームかな?」
「アウトドアとインドアの違いはあるけどね。」
「今はアウトドア派はほとんどいないんじゃないかな?アウトドアとインドアの違ってあるのかな?」
 若葉先輩と真登香先輩が言い合う。
「経験の質の差じゃないかな?インドアだと基本的に使っているのは、目と耳だけだけど、アウトドアだと五感のすべてを使うもの。知覚する量が圧倒的に違う。」と明美班長。
「ってことは、昔の子の方が物知りだったんだね。」
「それにしても、「パンを一切れ胴乱に入れて、朝早くから夜まで、食事になんか帰らないで、駆け歩く」って凄いよね。こんなに夢中になれるって幸せかも?」
「十歳って言えば、小学校五年生だよね。あたしは塾に通っていたなあ。好きなことなんてする暇無かったよ。」
 みんな思ったことを口々に言い合っていた。その時、先生がやって来た。
「「僕」にとってのちょうの収集は、それを捕まえることを含めて、野山を駆け巡ること自体に魅力を感じているのです。ちょうの生息地や習性を発見する喜びが含まれています。標本作りが目的じゃないんです。ちょうの収集は、野外の自由な世界を楽しむ手段でさえあるのです。もっとも、「僕」にそこまでの自覚は無いでしょうが、意味づければそうなります。」
「先生、それならバードウオッチングなんかもそれですか?」と明美班長が聞く。
「子どもの情熱はありませんが、本質的には通うところがありますね。」
 野外の自由な世界を楽しむのか。イメージが湧かないなあ。それどころか、あたしは、それほど夢中になれるものがないなあ。そもそも、あたしは何が好きなんだろう?

コメント

  1. すいわ より:

    小学生になる前にこの感覚、体感しました。都内から田舎へ引っ越してきて、外の世界は子供の私にとって正に天国でした。土や草の香り、水の流れる音、お日さまの光の中、動物、昆虫、植物が私の先生。発見の連続で毎日ワクワクしていました。世界の中心にいるような、いえ、世界が私を包み込んで抱き留めてくれているような充足感に心がほどけていく思いでした。
    「僕」にとって、ちょうはそうした自然への案内役だったのではないでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      「ちょうは自然への案内役」、まさにその通りです。欧米には、自然学習と言われるものがありますが、それ無しにこの少年は自ら自然を学ぶすべを心得ているのです。
      こうした経験、すいわさんもされた経験を経ないで成長した子との違いは想像を絶するものでしょう。

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