第百二十三段 ~歌の力~

 昔、男ありけり。深草にすみける女をやうやう飽きがたや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
 年を経てすみこし里をいでていなばいとど深草野とやなりなむ
女、返し、
 野とならばうづらとなりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
とよめりけるにめでて、ゆかむと思ふ心なくなりにけり。


 昔、男がいた。深草で一緒に暮らしていた女を次第に飽きてきて別れる潮時だと思ったのだろうか、このような歌を詠んだ。
〈長年一緒に暮らしてきたこの里を私が出て行ったならば、深草は、今でもその名の通り草深い野ですが、ますます草深い野になってしまうでしょうか。きっとそうなるでしょうね。〉
女が返し、
〈草深い野となるならウズラとなって鳴いて(泣いて)いましょう。そのウズラを狩りに仮にでもあなたは来ないでしょうか、きっと来てくださいます。〉
と詠んだのに男は心惹かれて、出て行こうと思う心がなくなってしまった。
 この二つの歌は、『古今和歌集』雑下に載っている。(男の歌は業平の歌として。)ただし、詞書きは「深草のさとにすみ侍りて、京へまかるとて、そこなりける人によみておくりける」になっている。これを元に倦怠期の夫婦の話に作り変えたのだ。男の歌はかなり残酷な意味になる。女の歌は、上の句が「野とならばうづらと鳴きて年はへん」になっている。つまり、〈私はウズラと一緒に泣いて暮らしていましょう。〉という意味である。これを比較すると、『伊勢物語』の方がずっと切ない歌に変わっている。
 この歌は、前段と対照的に歌が心動かしたケースである。作者は、物語も終わりに近くなっているので、こうした歌の力を示したかったのだろう。女は男を心から愛していた。それが優れた歌によって伝わり、男は女の悲しみを受け取ったのだ。
 松尾芭蕉の『許六離別詞』に「 これらは歌に実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」とある。芭蕉は、詩とはそういうものだと言う。女の歌は、まさにそれだったのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    平凡な日常の繰り返しの中、ときめきを失った男。この場を去るにあたって、それでも女の反応を見たくなったのですね。女に咎があるわけではないけれど、別れを切り出され、それでも男を責めるようなことは言わない。「私はいつまでも、ここでお待ちしております、誰も訪ねることのない、草深いこの野で」と。この女、こんな歌が歌えたのか、と新しい面を見つける男。相手に心を向け届ける事の大切さを思わせます。鶉の番は仲が良いですものね。

    • 山川 信一 より:

      男が弱いのは女の健気さです。これを見せられてはもうイチコロです。でも、それを計算ずくで見せたのではダメです。
      つまり、女の本心でなければなりません。ウソは見破られます。男を慕う女の真心、これが「実(まこと)」です。
      あとは、それをどう表現するかです。深草の地はウズラがよく捕れる狩り場でもあったのでしょう。巧みにそれを詠み込みました。
      男に頼るしかないか弱さをウズラに重ねました。

  2. らん より:

    女のこの歌で男はコロリですね。
    泣いて待ってるひとをほっとけないですよね。
    胸がキュンとします。

    • 山川 信一 より:

      この歌には男心を捉える力がありますね。男が思う女のイメージに沿った歌だったのでしょう。一歩引くことも大事ですね。

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