第百九段 ~失恋を慰める~

 昔、男、友だちの人を失へるがもとにやりける、
 花よりも人こそあだになりにけれいづれをさきに恋ひむとか見し


 昔、男が、友だちで(「友だちの」の「」は同格。)、恋人を失った人のもとに歌を贈ってやった、
〈当てにならないはずの桜の花よりも愛する人の方が当てにならなく(「あだに」)なってしまいましたね。しかし、あなたは花と人のどちらが先に姿を消し、それを恋い慕うだろうと見ていたでしょうか。(まさか人の方が先になるとは思っていなかったでしょうに。お気の毒です。)〉
 これは、恋人を失った友人を慰める歌である。
『古今和歌集』哀傷に「桜を植ゑてありけるに、やうやう花咲きぬべき時に、かの植ゑける人みまかりければ、その花を見て詠める」(紀茂行)とある。これを恋の場面に移し替えて使ったのだ。失恋の悲しみは人の死のそれに匹敵すると言うのだろう。確かに、失恋すると、生きている意味が感じられない程落ち込んでしまうこともある。しかし、こう言われたとしても、どれほどの慰めになるか。失恋した人を慰めるのは難しい。
 もとの歌は、亡くなった人を思っての感慨である。こちらの方がずっと悲しみが伝わってくる。応用には、やや無理がある。

コメント

  1. すいわ より:

    失恋を慰める、、何を言ったところで心に響くことは無いだろうし、迂闊なことを言えばかえって傷を拡げかねない。日薬と新しい恋に期待をかけるしかないように思います。周りが出来ることは側にいて黙って言いたい事を聞いてやる、くらいですか。
    失恋の痛みがギューっと凝集してそのカケラがチクリと刺さるのに対して、死の喪失の痛みは水に滴下した墨がじわじわと拡がり、漆黒の闇に捕らえられ飲み込まれて身動き出来ない苦しさでしょうか。似て非なるもの、ですね。恋のカケラが核となって転がって、また新しい恋に育つのを期待しましょう。

    • 山川 信一 より:

      結局この話は、すいわさんのおっしゃる通りです。つまり、恋を失った者に何を言っても効果無し、こんな歌じゃダメなんだと、それが言いたいのでしょう。
      失恋の痛手は、もしかすると死別よりも大きいのかもしれません。もちろん、別物と言えばそうなのですが。

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