第百段 ~忘れず忍んでいる~

 昔、男、後涼殿のはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御局(みつぼね)より、忘れ草を「忍ぶ草とやいふ」とて、いださせたまへりければ、たまはりて、
 忘れ草おふる野辺とは見るらめどこはしのぶなりのちも頼まむ


 昔、男が、後涼殿と清涼殿の間の廊下(「はさま」)を渡っていると、ある高貴な人のお部屋(「御局」)より忘れ草を「これを忍ぶ草と言うのか」と言って、お出しさせ(「いださせ」の「」は使役の助動詞。)なさったので、いただいて、
〈あなたは、私のことを忘れ草が生えている野辺とみているようですが、これは忍ぶ草です。いままでも、これからもあなたのことを忘れることなく頼りにして忍んでまいります。〉
 男と女は既に付き合っていた。しかし、男が女をなかなか訪れなかったのだ。「後涼殿」とあるから、身分の高い女である。そう簡単に訪れることができなかったのだろう。しかし、女は「私を忘れたのね、それともこれからも忍んで待っていろと言うのですか。」と言ってきた。そこで男は次のように言う。「あなたを忘れた訳ではありません。ただ、身分違いの恋なので、なかなか逢えないで忍んでいるだけなのです。でも、これからもあなたを忘れることなくお逢いできることを期待しています。」
 男は殿上を許されている身分なので、第九十三段の男女ほどは身分の差が無い。それでも、こうした恋を続けるのは難しい。ただ、男は女から忘れたのではと疑いを持たれているところを見ると、多少手を抜いていた節はある。恋はまめではなくてはならない。

コメント

  1. すいわ より:

    男は宮仕えをしていて、その姿を女はたびたび見かけていたのでしょう、なのに自分を訪ねて来ない。もしや、他の女の所へ訪ねて行っているのではあるまいか?忘れ草を差し出して、「これは忍草?」と渡すところがいじらしいです。男を責めつつ、男に対してまだ気持ちがある。自分の立場もあってなかなか訪ねられない男。でも、文の一つ、歌の一つくらい贈らないと。思われている証があれば、女も忘れ草を差し出すことなんてせずに待っていることでしょうに。

    • 山川 信一 より:

      言葉や行為をできるだけ省略して、思いを伝えようとする。これはどうも日本人の伝統的態度らしい。ここでも、忘れ草を出して、「忍ぶ草ですか?」と言うことで、男の心を確かめようとするのですから。
      こういった態度が現代の俳句も支えているのでしょう。でも、省略しすぎもよくありません。男が手を抜きすぎたのでしょう。第三十一段の女を思い出します。あの時のやり取りはもっと激しかったですね。

      • すいわ より:

        今回は脇から口出しする人、いませんね。丸く収まったという事でしょうか。そういえば、時代がもう少し後ですが、山吹の花、黙って差し出す人もいました。伝わる人にしか伝わらない。文化込みで日本語が難解と言われるのはこう言ったところなのでしょうか。

        • 山川 信一 より:

          これで女の気持ちが治まったとは思えません。恋を維持していくことは難しいですね。
          日本語表現、それも特に短詩型は読者を選びます。わかる人に向けてなされます。ですから、読者は作者に選ばれるように努力する必要があります。

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