第九十四段 ~ゆるやかな関係~

 昔、男ありけり。いかがありけむ、その男すまずなりにけり。のちに男ありけれど、子ある仲なりければ、こまかにこそあらねど、時々ものいひおこせけり。女がたに、絵かく人なりければ、かきにやれりけるを、今の男のものすとて、ひと日ふつかおこせざりけり。かの男、「いとつらく、おのが聞ゆることをば、いままでたまはねば、ことわりと思へど、なほ人をば恨みつべきものになむありける」とて、弄じてよみてやれりける。時は秋になむありける、
 秋の夜は春日わするるものなれやかすみにきりや千重まさるらむ
となむよめりける。女、返し、
 千々の秋ひとつの春にむかはめや紅葉も花もともにこそ散れ


 昔、男がいた。どのような事情があったのだろう。その男、女のところに通わなくなってしまった。女には後に新しい夫ができたけれど、男とは子がある仲なので、愛情細やかとまではいかないけれど、この男は時々何か言ってよこした。女のもとに、女は絵をよく描く人だったので、描くことを頼んでやったところ、今の男の用をする(「ものす」)と言って、一日二日頼んだ絵を寄こさなかった。頼んだ男は「たいそう薄情に(「つらく」)、私が申し上げた(「聞こゆる」)ことを、今までなさらないので(「たまわねば」)、(私が後回しになるのは)当然だとは思いますが、やはり(理屈通りには行かず)相手の男を恨んでしまうものであるのですなあ。」と言って、からかって(「弄じて」)詠んでやった。季節は秋であった、
〈秋の夜には春の日など忘れるものなのですなあ(「なれや」)。霞より霧は何重にもたちこめ、優れているように思われているのでしょう。(私との夫婦生活はもうすっかり色褪せてしまい。今の夫のことしか無いのですね。)〉
と詠んだのだった。女が返歌をして、
〈いくら秋を集めても、一つの春に立ち向かうことができるでしょうか。たった一つの春が勝っています。(今の男を千人集めても、あなた一人に叶いません。私が愛しているのはあなたです。)でも、紅葉も花も共に同じように散ってしまいますが・・・。(でも、今の夫にしても、あなたにしても、男は浮気だから、どちらも当てになりませんけど・・・。)〉
 元の夫が今でも元妻に通じている。ただ、積極的によりを戻したいとまでは思っていない。ほどほどの距離感を持って付き合いたいと思っている。それに対して、元妻は今の夫より元の男を今でも愛している。心の内では、本気で当てにはしていないにせよ、よりを戻したいと思っている。
 今の夫こそ気の毒ではあるが、現状にあまり深刻さが感じられない。女には絵という技術があったからだろうか。一人でも生きていかれるという自信につながっているようだ。
 現在に比べると、なんとも大らかな夫婦生活である。当時は、夫婦関係を含めて人間関係を所有の概念で捉えていないからだろう。夫婦関係が今のように厳格なのは、所有の概念が働いているからでははないか。しかし、人間関係に限らず、所有の概念は必ずしも人を幸福にしないようだ。ものごとを「持つ」「持たない」で捉えることを考え直してもいいのではないか。

コメント

  1. すいわ より:

    男2人、女1人だと、嫉妬の矛先は大概女にむけられるので、「なほ人をば恨みつべき」は女を指しているのかと思いました。通い婚だと、子供は母方で暮らすのですか?
    何だか現代のフランスの家族事情に似ているなぁと思いました。敢えて法的に婚姻関係を結ばず、内縁で家族を構成している人が多いようです。兄弟姉妹、みんなそれぞれ父母のどちらかが異なる家族がままあったり。ティーンになった子供達が、付き合うという段になって実は兄妹関係だった、なんて事もあるようで
    それはそれで困ったことでしょうけれど。
    この段の2人は双方ともモテる人達なのでしょう、男は「恨む」なんて書き作りつつ、女に仕事の依頼をして嫌味のない形で支えているし、女は女で男を持ち上げつつ寄り掛からない。関係が洒脱。そして、母たる人の逞しさ、腕前に自信があればこそでしょうけれど、絶妙な距離感を保ちつつ、ビジネスチャンスを逃さない。鷹揚に応じる男もなかなかの器ですね。
    形のないものを型に嵌め込む事自体に、本来無理があるのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      長いコメントをありがとうございます。「なほ人をば恨みつべき」は、男が女に向かって言っている言葉ですから、直接相手を「人」とは言いません。それに女を恨むと言うのは粋じゃありません。
      夫婦関係は、様々な試みがあるのでしょう。物事には軽重が有るのに、大切なものが軽く扱われることもあります。その点、フランス人は平安人同様賢いのでしょう。
      この段を読むと、今の夫婦関係だけが唯一ものではないことが見えてきますね。男女の感情のあり方も変わってきそうです。

  2. らん より:

    なんだか不思議なお話ですね。
    平安時代はなんともおおらかで自由だなあと思いました。
    秋いっぱいでも春1つに勝てないのですね。
    前の方がいいのかあ、、、今の男、かわいそうですね。

    • 山川 信一 より:

      この女性は、自分の気持ちに正直です。嘘がつけないのでしょう。
      だから、別れた後でもこうして付き合っているのでしょう。
      自分の気持ちに正直に生きられる分、現代より自由ですね。

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