第八十五段 ~思いは積もる雪~

昔、男ありけり。わらはより仕うまつりける君、御ぐしおろしたまうてけり。正月にはかならずまうでけり。おほやけの宮仕へしければ、つねにはえまうでず。されど、もとの心うしなはでまうでけるになむありける。むかし仕うまつりし人、俗なる、禅師なる、あまた参り集りて、正月なればことだつとて、大御酒たまひけり。雪こぼすがごとふりて、ひねもすにやまず。みな人酔ひて、雪にふりこめられたり、といふを題にて、歌ありけり。
 思へども身をしわけねば目離れせぬ雪の積るぞわが心なる
とよめりければ、親王、いといたうあはれがりたまうて、御衣(おんぞ)ぬぎてたまへりけり。

 昔、男がいた。子どもの時からお仕えしていた御主人が、出家なさってしまった。正月には必ずお伺いした。この男は朝廷の宮仕えをしていたので、常には伺うことができなかった。しかし、元の心は失わないでお伺いしていたのであった。昔お仕えしていた人が、普通の人も、法師も、沢山参上して集まって、正月なので特別にということで、お酒を振る舞ってくださった。雪がまるでこぼすように降って、一日中止まなかった。皆酔って、雪に降り込められているというのを題にして、歌を詠み合った。(その中で)
〈あなたのことを思うけれども、身を分けることができないので、(思うようにはお目に掛かることができません。)こうして片時も目が離せないほど大量に雪が積もることがあなたをお慕いしている私の心が積もる姿なのです。〉
と男が詠んだので、ご主人の親王は、それはもうたいそう感激なさって、お召し物を脱いでお与えになったのだった。
 身分を超えて沢山の人が人里離れたところまで集まっている。親王は、多くの人に慕われていたようだ。「雪がこぼすがごとふりて」という描写が正確である。これが歌の内容を限定している。次々に降って積もってく雪を親王を思う心が積もることにたとえているのである。思いという目に見えない物を見える雪にたとえたのである。男の心は見事に親王に伝わった。主従関係も恋である。

コメント

  1. すいわ より:

    「まぁだだよ」という黒澤明の映画を思い出しました。内田百閒の元に集う教え子達。なぜ、皆集まるのか。その人のひととなりに惹かれて、の一言に尽きるのではないでしょうか。親王を囲む人達も同様でしょう。
    募る思いと降り積もる雪。幼馴染としての少年期を経て、成長に伴い、それぞれの地位、立場というものが付加されても、親王と男との繋がりの芯となっているのは、お互いを思い、敬う心。時代が変わろうと、地域が変わろうと、たとえ言葉の通じない同士であったとしても伝わる「真心」。パワーゲームに血眼になっている人にはただの邪魔な雪の山にしか見えない。でも、降り積もる雪は大地を浄化し、潤し、豊かな芽吹きに繋がります。ゆっくりと確実に。人がひととして生きるのに本当に必要なものは何か、実は一人びとりが皆、持っていて、持ち物が増えたせいでどこに置いたかわからなくなっているだけなのかもしれません。手放せないのがまた、人間の性でもありますが。

    • 山川 信一 より:

      私は、この物語を恋の教科書として読んでいます。しかし、すいわさんがおっしゃるように「人がひととして生きるのに本当に必要なものは何か」を思い出させることもこの物語の目的なのでしょう。
      『伊勢物語』は、読む人によっていかようにも読める物語です。とても豊かな読みですね。

  2. みのり より:

    降り積もる雪に想いを例えること、素敵だなあと思いました。
    想いが伝わりますね。
    親王はみんなに慕われてたのですね。

    • 山川 信一 より:

      男は兼題を生かしながら思いを見事に表現しましたね。
      お召し物を脱いで与えたことから、親王がいかに感激されたかがわかります。

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