昔、そこにはありと聞けど、消息をだにいふべくもあらぬ女のあたりを思ひける、
目には見て手にはとられぬ月のうちの桂のごとき君にぞありける
そこにいることは聞いているけれど、手紙で近況をさえ言うことができない女が住むあたりを思って詠んだ、
〈目には見え手には取ることができない月に生える桂の木のような君であることだなあ。〉
歌の前にある言葉は常に連体形になる。ここでは、「思ひける」の「ける」がそうだ。これは、歌全体を名詞に見立ててそこに掛かるからである。
女に贈った歌ではない。月を眺めながら女を思って詠んだのだろう。男は歌を贈ることさえできず、自分の思いを歌にしてかみしめている。そうすることで、何とか今の寂しさに耐えようとしているのだ
「月のうちの桂」は、月に生えているという伝説の大木。貞明皇后御歌『月の桂』に次のように歌われている。
「みよのめぐみの露しげき/いく春秋をおこたらず/袖をつらねてむつまじく/道の一筋進みなば/高根の花もかざすべく/月の桂も手折られむ」
これまでの流れからすれば、この女は斎宮だろう。「月のうちの桂」は、手が届かない高貴で神聖な存在をたとえている。男にはまだ未練がある。男は自分の思いにどこまでも正直に生きている。こうして逢えない女を思い続けることも恋をすることなのだ。
コメント
すごく近くにいるのに連絡出来ず、想うことしかできない、辛く寂しい気持ちが伝わってくる歌でした。斎宮と過ごした時間を噛み締めているのでしょうね。
この男は 女性全般に真剣に向き合っていますね。
自分の気持ちに正直にありのままの自分で生きているのでしょうか。
共感はできませんが、すごいなあと思います。
私としては自分ひとりだけに恋してほしいですが。。。
恋に徹するのがこの男の生き方なんですね。らんさんの言うように自分に正直にありのままに生きているのでしょう。
これはこれで大事なことです。自分の気持ちを見失っては、自分らしく生きられません。
これは見習ってもいいですね。
男にとってどこまでも至高の存在、月がそこにあるとわかっても、そこにある桂の木を見ることも触れることも出来ない。香り高い桂の木、せめてその気配だけでも、と手放せない恋心、募る思いが歌となって溢れたのでしょう。竹取物語の不死の薬と文を燃やして、その煙が空へと立ち上っていく様とイメージが重なりました。
六十九段からここまでの男の行動がどうにも不可解に思えましたが、「男」の姿を借りて、唯一無二の、そして全ての、男であれば恋はこんな風に振る舞うだろう、という事を誰もが自分を投影して読めるように多層構造に書き上げているのではないかと思いました。
『伊勢物語』は、一人の男の物語としても読めるようになっています。しかし。それぞれが独立した話としても読めるようになっています。それによって、恋の多面性を描いているのでしょう。
だから、、業平日記ではありません。業平がいかに超人的な男であったかを描くのが目的ではなかったはず。
すいわさんがおっしゃるように誰しもが自分を投影して読めるようになっています。作者は多層構造の物語を作ったのでしょう。