第六十九段 ~その二 女の大胆な行動~

つかひざねとある人なれば、遠くも宿さず、女のねや近くありければ、女、人をしづめて、子一つばかりに、男のもとに来たりけり。男はた、寝られざりければ、外の方を見いだしてふせるに、月のおぼろなるに、小さき童をさきに立てて人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所に率(ゐ)て入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何ごとも語らはぬにかへりにけり。男いとかなしくて、寝ずなりにけり。つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより、詞はなくて、
 君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか
男、いといたう泣きてよめる、
 かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ
とよみてやりて、狩にいでぬ。

男は使者の中の主だった立場(「つかひざね」)にある(「とある」)人であったので、遠くにも宿を取らず、女の寝室近くにいたので、女は、人を静めて、夜の十一時頃(「子一つばかり」)に、男のもとにやって来た。男もまた(「はた」)寝られなかったので、外の方を見やって伏せっていたが、月がぼんやりした光に照らされて、小さい子どもを先に立てて人が立っている。男はたいそう嬉しくて、自分が寝るところの引き入れて、十一時から二時頃(「丑三つ」)までいたが、まだ何事も語り合わないのに女は帰ってしまった。男はたいそう悲しくて、寝られなくなってしまった。早朝、気がかりだったけれど(「いぶかしけれど」)、自分が人をやるべきではないので(「」は強意の副助詞)、たいそうじれったく(「こころもとなく」)待っていたところ、夜がすっかり明けてしばらくして、女の元から、言葉はなくて、
〈あなたが来たのか、私が行ったのだろうか、はっきり覚えていません。夢なのか現実なのか、寝ていたのか起きていたのかも。(「おぼほえず」は前後を受けている。)〉
男は、たいそう激しく泣いて詠んだ、
〈お逢いできた喜びとすぐにお別れした悲しみとで泣きはらす心の闇の中で途方に暮れてしまいました。これは夢なのか、現実なのか、今夜お出での上決めてください。〉
と詠んで、お役目の狩りに出てしまった。
 女(斎宮)が自らやって来たのである。自分の立場を忘れ、男に身を任せてしまう。女の方から来るのは、恋の作法に反している。女は、後朝の歌まで贈っている。まるで逆である。このことは何を意味しているのか。大胆な行動である。男に惚れてしまったことは確かである。そこで、次の仮説を立ててみる。
 女は恋にうとい生活を送っていた。恋とはこうするものだと、聞きかじってはいた。しかし、男と女がそれぞれどう振る舞えばいいのかわかっていなかった。これは、それまで親の言いつけにしたがって男の世話をしていたので、この場合も自ら行くべきだと思ったのかもしれない。それほど、うぶな少女だったのだ。
 このことを通して作者が伝えたいことは何か。男は人目を気にしている。女の方が恋に真っ直ぐである。作者は女の常識破りの行動をよしとしている。それが恋をするということだと言いたいのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    甲斐甲斐しいお世話を受けて、男は女に心惹かれ「あはむ」と声掛けたけれど、天皇の勅使という重職に就くだけの分別のつく年頃でもあり、自分からよもや斎宮である女の元へ忍んで行くわけにもいかず、気持ちのやり場もなく、眠れぬ夜を過ごしている。霞掛かる月の、薄明かりの庭を眺めていると、まさかの女が稚児を伴ってそこにいるではないか。嬉しさのあまり、後先考えることもなく、女を寝所へ引き入れて過ごすも、逢瀬の喜びを語らう間も無く、女は帰ってしまい、そのつれなさに男は悲しみのまま眠れぬ夜を明かす——というのが男の側の現状。
    先生も仰る通り、女の行動が大胆極まりないですね。まず女から忍んで来るなんてあり得ないことだし、いくら皆が寝静まった深夜とはいえ、女の部屋も近く、もし、誰かに見咎められたら一大事、稚児を連れている辺り、それこそ女から男の元へ行ったと知れてしまう。明けて男の所に届けた歌が「おもほえず」。取りようによっては「昨日の事は無かったことにね」と取れなくもない。これまでにも私同様、客人の世話をしてきた手慣れた女だったのか?と男が袖にされたと思ってもおかしくない。思いがけない嬉しさの反動で、これは泣きますね。
    でも、女の側の行動を見ると、あり得ない事だらけ。自分から男の元へ来る、二時間も共に過ごしながら黙って帰る、文に歌が添えられているのならいざ知らず、その歌の内容も夢うつつ。涙に濡れた男が歌を詠んで女の元へ届けさせているあたり、それまでしていた朝の支度の世話にも出ていない。
    先生の仮説、女はうぶな少女だった、と読む方が女の行動の説明がつくように思います。
    ——自分は斎宮という立場だから、男の人に触れてはならない、でも、目の前に現れた勅使の素敵なこと、胸の鼓動の高まるのがわかる。これが恋というもの?今までお父様の仰る通りに過ごしてきた。でも、この思いを抑える事は出来ない。どうしよう、恋しい人の元へ行けば良かったのだったかしら?——
    そして逢瀬の時、濃密な時間を過ごし、頭で分かっていると思っていた事と現実に起こった事の、あまりの差異。女の寄越した歌に女の心情がそのまま現れていると言えるでしょう。純粋極まりない恋心。かたや数多の恋をして来ているであろう男の方は経験と社会性を身につけた分、女の本当の気持ちに辿り着けきれずにいる。皮肉なものです。

    • 山川 信一 より:

      解釈に詳細な肉付けをしてもらいました。まさにその通りです。長い長いコメントをありがとうございました。
      ただ「客人の世話をしてきた手慣れた女だった」とすると、現実的で筋が通ります。でも、その後の女の行動の説明が付きにくい難点があります。
      この時の女心は実感としては、女性の方が持ちやすいのではないでしょうか?私も男と同様「女の本当の気持ちに辿り着けきれずにい」ます。

  2. すいわ より:

    勢いで書いてしまって改めて見ると長いですね、2日分という事でご容赦下さい。
    客人の世話はこれまでにもして来たとは思うのですが、これまではおそらく、差配はしても、手ずからお世話に当たることは無かったのではないかと思うのです。天皇の勅使という特別な地位の人の世話に当たることになり、自分の姿を見せるのも、この男が初めてだったかも知れない。それ程、世間から隔絶された生活だったのでは?だから距離感もおかしいですよね、夕方、狩から帰った男を自分の部屋にまで入れるものですか?
    それが一夜にして世界観が一変してしまう。女の動揺は想像に余りあります。禁忌の意味を目の前の現実として突きつけられる、ここで初めて女は社会と対峙したのではないでしょうか。斎宮という「お飾り」の自分ではなく、生身の女として存在している自分。その自覚がむしろ女にとっては悲劇的。これが本当に色好みの慣れた女で一夜の遊びなら、歌に「君」とは書かないと思うのです。

    • 山川 信一 より:

      「君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか」の歌は、古今和歌集の恋三に、詠み人知らずとしてとられています。長い詞書きには、「斎宮なりける人」から来たものだと書いてあります。
      返しには、業平の歌も載っています。ただし、下の句が「世人さだめよ」となっています。『伊勢物語』はこれを元に作られたことは明らかです。当時一大スキャンダルになっていたのでしょう。

  3. らん より:

    先生、こんばんは。
    斎宮がしたことは、自分の身分や立場を考えると浅はかな行動でしたが、
    でも、そんなことも忘れてしまうくらいの情熱的な気持ちだったのかなあと思いました。
    斎宮のまっすぐな恋心が痛々しく、胸が苦しくなります。
    普通の女の子なら良かったのに。

    • 山川 信一 より:

      斎宮の気持ちと行動は理解できるのですね。自分恋心に素直にしたがって行動する女性は昔も今も変わらないのですね。
      らんさんもそういう女性の一人なのでしょう。

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