第十七段 ~恋の息抜き~

 年ごろおとづれざりける人の、桜のさかりに見に来たりければ、あるじ、
あだなりと名にこそ立てれ桜花年にまれなる人も待ちけり
返し、
 今日来ずは明日は雪とぞふりなまし消えずはありとも花と見ましや

 〈昔〉も〈男〉も出てこない。なぜか。なるほど、「」を男として、「あるじ」を女とすることもできる。しかし、作者が敢えてそうしなかったところに注目したい。これは、前段からのつながりで読めば、同性の気楽さを言っているのだ。
 長年(「年ごろ」)訪れなかった人が桜が満開の時に見に来ていたので、その家の主人が次のように歌を詠んだ。
 頼りにならない(「あだなり」)と有名であるけれど(「名にこそ立てれ」)、桜の花は(あなたと違って)、年に来ることが希である人もちゃんと待っていますよ。あなたの心は頼りにならない桜より移ろいやすいのですね。(私はあなたのことを忘れていませんよ。)
 再会の喜びもあるけれど、滅多に来なかったことへの皮肉も言う。
 主人に返す。
 今日来なかったら、桜は待てずに明日は雪となって降るように散ってしまったでしょう。もし、雪のように消えずに残っていたとしても、誰が花と見ましょうか。だから、桜は当てになりませんよ。(忘れずに待っていたという、あなたもそうではありませんか。)「ずは」は仮定、「まし」は反実仮想。
 相手の皮肉に巧みに切り替えす。知的な遊びの中に互いの気持ちを確かめ合っている。
 男女であればこうはいかない。気の使い方が違う。恋には息抜きも必要である。

コメント

  1. すいわ より:

    気のおけない友というのは有難いものですね。十一段で若かりし日、旅路の寂しさを書き送ったのと対照的に、大人のゆとりを感じます。会うのが数年越しになっても、若い頃、共に過ごした時間へ一瞬にして戻れます。これが主人が女性だったら、、皮肉というより、恨みがましいことの一つも言いそうです。
    待ちくたびれてしまったわ、花びらになって、あなたの肩に舞い降りられればいいのに。待っている間に雪のひとひらになってしまったら、せっかく舞い降りられても溶けて無くなってしまうわ、、、全く違うお話になってしまいますね。

    • 山川 信一 より:

      人と人の関わり方には実に様々な形があります。作者はそれを恋をテーマに見せてくれるような気がします。
      男同士のそれもある意味では「恋」なのかもしれません。

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