第十四段 ~素養の壁~

 昔、男、陸奥の国にすずろにゆきいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむありける。さてかの女、
 なかなかに恋に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり
 歌さへぞひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、いきて寝にけり。夜ぶかくいでにければ、女、
 夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる
といへるに、男、京へなむまかるとて、
 栗原のあねはの松の人ならばみやこのつとにいざといはましを
といへりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞいひをりける。

 この段も続きとして読める。とうとう、男はこれといった目的もなく(「すずろに」)陸奥まで足を伸ばす。その土地の女に目を付けられる。第十三段のケースと対照的である。
 女は京の人が珍しく思えたのだろうか。たぶんそうであろう。この男と結ばれたいという心が痛切に(「せちに」)起こった。(今なら芸能人に憧れる気持ちに近いだろう。内面ではなく、属性に惹かれたのである。)そこであの女は男に歌を贈る。
かの」が使ってあるのは、語り手が女を突き放しているからだ。つまり、同情的ではない。語り手は、男に寄り添っている。男の感情を代弁しているのだ。その歌。
なかなかに」は〈なまじっか・中途半端に〉の意。こんな風に中途半端に、つまり、恋に苦しむだけで死んでしまわないなら、夫婦仲のよいカイコになるべきであった、命が玉の紐くらい短くても。
 語り手は、歌までも田舎っぽいと評している。カイコをたとえに使っているからである。この歌は、『万葉集』の東歌である。歌は万葉に時代には庶民のものでもあったけれど、平安の世では貴族の洗練された文学になっていたゆえの感想である。ともかく男は女の歌が気に入らない。
 それでも、女が田舎にあっても正しい恋の作法に則り、歌を贈ってきたことに心動かされ、一生懸命な女を健気に愛しく思ったのだろう(「さすがにあはれとや思ひけむ」)。男は行って寝てしまった。ここで、〈逢ふ〉ではなく、〈寝る〉という即物的な言い方をしている。それは、男が女に恋心を抱いていないからである。単なる同情で、女の思いを叶えてよろうとしただけである。だから、男は暁までいることもなく、夜が深い時刻に出てしまった。すると、女が次に歌を詠む。
 夜でも明けようものなら、水瓶にはめずにおくものか(狐に食わさずにおくものか)。鶏のバカ(「くたかけ」)がまだ夜が明けないのに(「まだきに」)鳴いて愛しいあなた(「せな」)を返してしまったわ。
夜も明けば」の歌で「」と言っているのは、女が腹を立てている気持ちを表している。〈(冷静に)夜が明けたら〉ではなく、〈夜でも明けようものなら〉という腹立ち紛れの気持ちを表す。この歌は、東歌のパロディである。前の歌以上に「ひなびた」歌にしている。これには、歌はもっと優雅な言葉を使わなければいけないという批判が籠められている。
 女は、自分が好かれていないことを認めようとはしないのである。前向きと言えば前向きだが、自分の都合の良いようにしか物事を解さないのだ。
 女がこう言っているので、(「いへるに」は、後の「いへりければ」と使い分けられている。いつもこんな調子なのである。)男は、(こんな無粋な女に嫌気がさしたのだろう。自分を諦めさせようとして)京へ帰ることになったんだと言ったところ(「いへりければ」)、歌を詠む。地方から京へ行く時は、普通〈まゐる〉であるけれど、〈まかる〉を使ったのは、女に気を遣ったからだ。男は自分はあなたを中心に物事を考えていると伝えているのだ。さて、その歌。
 栗原のあねはの松が人であったら(「あねは」は地名。女はここに住んでいたのだろう。)、都への土産にさあ行きましょうと誘うのにね。(あなたがもう少し人並みであったなら、京に連れて行くのにね。)「まし」は反実仮想の助動詞。
 と言ったところ、女はいつまでも喜び続けて(「よろこぼひて」は〈よろこぶ〉+継続の〈ふ〉。)、〈やはり私のことを愛していたらしいわ。〉と言っていたのだった。
 どこまでも、鈍感で自己中心的なおめでたい女だったのだ。たとえ、フラれてもこう解釈できればかえって幸せなのかも知れない。
 とは言え、地方の女との付き合いは、素養が壁になるということだ。

コメント

  1. すいわ より:

    今と昔では、都からの時間的距離は遥かに遠く、文化の伝播もしかりでしょう。それなのに人のありようは変わらないのが可笑しいです。いつの世にもポジティブモンスターは存在するのですね、私も田舎育ちですが、これは凄まじい。
    船乗りは港ごとに女がいる、なんて言われますが、「栗原のあねはの松(栗原のあねはで待っているあなた)」と歌われた時点であなた1人じゃないんだよね、私の思い人は、と暗に言われていると思うのですけれど。源氏物語の明石の君は奇跡的に出来た人、ということなのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      『伊勢物語』は恋のあらゆるパターンを網羅しようとしたものです。紫式部はそれを鑑賞して、創作に結びつけたのでしょう。
      『伊勢物語』は普遍的な恋の物語、『源氏物語』は特殊な物語、つまり、小説に近い物語です。だから、明石の君も特殊な人物なのです。
      したがって、生徒が学ぶには、まず『伊勢物語』なのです。私が恋の教科書と言うのはそのためです。

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